2011年10月31日

建設的

 建設的じゃない話はやめよう。
 先日、食事会をしていると「今度、カラオケに行こう」って話になった。

 ボクもすぐ賛成して「行こう行こう」。「ところで池田さんはどんな歌を
歌うの」って聞かれたから「あーボクはランナーです」って応えた。
 「えっ、あの走る、走る、ですか」。「はい」。
 「血管、切れないですか」「はい、いつも血管、ぶち切れながら歌ってます」。

 カラオケをしよう、そんな話をすると「カラオケ、趣味じゃないんですよね」
とか「わたし、歌うの下手だから」など聞かされることがある。
 自分の趣味とは違う展開になるとつまらないものだが、こういうときは
「やる」方向で話すべきだ。
 ちなみにボク自身は最近、カラオケを歌った記憶がない。

 これに比べると人々ははるかに「やらない方向」で話をしているものだ。
 聞いていると芸能人のゴシップ記事みたいな話がとても多い。いくら
芸能人の話をしても世の中、1ミリだって変わりはしない。
 自分の気持ちも一切、変わらないはずだ。

 ボクも20代のころは低俗な話が大好きだった気がする。芸能人の話とか
他人の悪口とかだね。だが、今、はっきり断言してしまうけど、それって
ただの習慣に過ぎないんだよね。自分がその手のことを好きだと勘違いしてる
だけなんだ。

 人は自分があるものに関心があると考えていても、それってただの癖、
習慣なんだ。だからゴシップ記事が好きだと思っていても、それから変わる
ことはいくらでもできる。どうせなら、自分が好きな分野に動く方が
楽しいんじゃないかな。

 ボクは高校の3年間、一度もテレビを見ていない。中学生までは毎日4時間
くらい見ていた。見てない理由はただ単に「毎日、忙しかったから」。

 そのときのことを思い出して書くんだが、人間なんてものはいろんなことに
慣れていく生き物だということ。テレビもただ単に「見ることが習慣になって
いるだけ」なんだ。ゴシップ記事もそう、つい否定的な意見を口にしてしまう
人もそうだ。習慣なんだから、変更すればいいんじゃないの。

2011年10月29日

出会う

 ゆうべ食事会をさせていただいた。いつも聞かれることがある。
 「池田さん、この方とはどこで出会われたんですか」。

 いつも一応、説明させていただくのだが、内心、意味のない説明だと
よく分かってる。
 「いつ、どこで出会ったか」、はボクにとってあまり意味のないことだから。

 会合やセミナー、交流会などに参加すると「池田さん、こちらはだれそれ
さんです」と紹介を受けることがある。ほとんどの場合、名刺交換と相成るが、
ボクはこういう状況で出会った場合、もう一度、お会いして話を聞かせて
いただくべく行動する。それだけだからね。

 こういう状況をすれ違いと言うんだろう。
 そのすれ違いをそのままほったらかしにしない、それだけなんだ。
 よって食事会をやっているのは「気軽に誘える設定」だと言い換えても
いいくらいだ。

 ボクと人との出会いは「遅いか、早いか」の違いしかないわけだ。
 ゆうべも聞かされたが「池田さんは独特だ」なんだって。ボクも独特
だが、出会う人たちもいろいろな考えや理念があるだろう。
 その内容は聞いてみなくちゃ分からないからね。

 逆にボクは不思議に思うんだ。
 「なぜ、みんなは出会った人たちとそのままなんだろう」って。名刺交換
させていただいたんだよね。なにかのきっかけが起こったわけだろう。
 これも友人になるチャンスかもしれないじゃないか。

 「たぶん、友人とかそんなことにはならないだろうから」、ボクには「勝手
に決めつけ行動しないことにした」、そんなふうにしか感じられないんだよね。

 少し、立ち話をしただけでその人の考えや気持ちを理解したつもりになって、
なにもしないのか。実にもったいない。

 ボクは友達を増やしたいわけじゃないんだ。せっかくの出会いだからそれを
活かし、友達や友人になるのならすばらしいことじゃないか、だけだ。
 ボクの感覚の中では「その人とどこでどのように出会う」なんてのは
ほぼ意味のない言葉なんだよね。

2011年10月28日

見習う

 あれは20代のころだったか、30代だったかもしれない。
 よく利用する列車に乗っていたときのことだ。

 隣の車両から人がやってきて網棚に手を伸ばしたかと思うとサッと
手に取りすぐまた隣の車両に歩いて見えなくなった。瞬間、なにが起きた
のか分からなかった。

 しばらくして分かった。
 「あ、新聞かなにかを取ったな」。

 それを見たボクは「ちくしょう、一人でうまいことやりやがって」、
なんて思った。「これはやらない手はない。なにせタダで手に入るんだから」。

 それからしばらく、列車に乗ると網棚や座席に放置されている新聞や雑誌
を取ることにした。「タダほどすばらしいものはない」、そんな感覚だった。

 そんなことを続けている、あるとき、こんな光景を目にした。
 若い男性がやはり列車の駅の構内のゴミ箱に手を突っ込み、なにかを物色
していた。そのガササとなにかがすれる音までなんとなく覚えてる。

 その光景を見た瞬間、「これはまずい」と思った。
 自分の中の品という言葉がガラガラと音を立てて崩れる、そんな気がした。

 「まさか、周囲の人間からはそのように見えていたのか」、自分の行為を
客観的に眺めることができた。そして「もうこんなことはやめよう」と思った。
 落ちているものを拾うという行為がこんなにも品位のないことだなんて。
 分からなかった。

 そして、後々、「人はお金を払ったものにしか価値を置かない」とも
考えるようになり、これらのことから完全に去ることになる。

 他人のことはさておき、「拾ったものをいくら読んでも、自分のためには
ならず、その時間が逆にもったいない」と気づいた。
 「これで少し得になる」。だれにもその覚えがあると思う。だが、ときに
冷静に見つめてその行為を正していかないといけない。

2011年10月27日

若者

 「若者のために」とか「若者が羽ばたけるように」とか、考えなくても
いいんじゃないかな。若者はそれぞれ自分の感性でやっていくものなんだよ。

 ボクは高校に勤めていたことがある。その高校では三年生の春ごろ
「社会体験しようキャンペーン」を毎年やっていた。

 市内にある事業者を訪問し理解していただいて、学生たちに「お試し」で
疑似お仕事を体験してもらう、そんな主旨だった。
 あなたもこの考え、賛同されるだろう。

 ただね、これ、全面的に良い企画とはならなかった。
 生徒の中には「あんなきつい仕事、行きたくない」なんて事例がかなり
あったんだ。なんのためにやっているのか分からないよね。

 しかし。
 生徒の立場になってみればこれは当たり前かもしれない。

 学校の先生がたは「世間にある仕事をよりよく理解して、社会人というもの
がどういうものか考えてほしい」だったはずだが、よもやそんな結果になろうとは。

 だけどね、ボクは思うんだけど、そのときの学生がどのような心境で
仕事や会社に臨むかというのは、そのときの社会情勢で変わってくる。

 ボクも散々「そもそも仕事とは辛いもんだ」と聞かされたけど、
今、ボクはそんなふうには考えていないからね。ボクたちの上の世代は
あまりにも「刻苦勉励」にとらわれ過ぎていたんじゃないかと思う。

 「辛くなきゃ仕事じゃない」わけ。
 若者がそれに反発するのは当たり前ではないだろうか。

 学校の先生が「よりよく知って欲しい」と願って行動に移されること、
そのものは否定しないんだけど、そもそも学生たちが今の社会、お仕事を
どのようにとらえるかは、景気の善し悪し、子供のころの教育、環境に
大きく左右される。

 だから、「若者のために」とか「若者がよりよく働けるために」とか
あまり難しく考えなくてもいいんじゃないかな。若者は勝手に考えるんだよ。
 現在みたいに不景気が続くとみんな勝手に「辛くても仕事するんだ」みたいに
なったわけでしょ。あまり先走って用意してもその人たちのためにならない、
これも覚えておかなくちゃいけないことだよね。

2011年10月26日

丁稚

 このごろでっちという言葉を聞かなくなった。一緒で奉公も聞かなくなったな。
 ただ、この言葉が生きてる分野はもちろんある。自営業の世界だ。

 ボクは高校生のころから働いていてお給料もいただいていた。ただ、
月に1万円とか2万円とかね。

 だけど、ボクは内心、とても不満だった。
 「自分はここで知識や経験を吸収してる。そのためにやってるんだから」が
あったんだ。ま、それはあったが、そんなことが言えるはずもなく。

 そのころの1万円、2万円もそんなに使いでがあったわけではない。
 うん、ボクはそのころ一人でアパート暮らししていたが、家賃は1万円だった。
 だとしたら、まーまーな額か。

 要するに、自分が日ごろやっていることの評価が金額で示されることに
なんとなく抵抗を感じていたわけだ。

 「高校生くらいでそんなことを思うものだろうか」って思うかもしれないが、
いや、その状況に置かれたら思うもんだよ。京都に留学していたのだが、
そんな環境あってのことかもしれないけど。

 ボクは京都に行く前、父親から「昔はでっちという制度があってな、その
期間はお給料なんかもらえないんやぞ」と聞かされていた。だから自分の
覚悟としてもそんなものは必要ないと思っていた。

 なにより、毎日の努力が金銭に換算されることが気に食わなかった。
 自営業の世界も似たようなもんだ。

 仕事をしたからといって必ずお金になるとは限らないし、もらえるとも
限らない。まず自営業に就いてからしばらくは「お金はいいですから、
自分の仕事っぷりを見てください」期間みたいなものなんだ。

 誠意を観察してもらう期間なんだよ。
 自営業というのはそういう仕事なんだ。そんな気分で臨む必要がある。

 「働いた分だけお金が欲しい」はサラリーマンの考えることだ。自営業は
決してそんなふうには考えない。「しっかりした仕事しますから、それを
よく見てください」が基本的な立場だ。

2011年10月24日

突発

 人が見る景色はなんとなく似てこないだろうか。ボクはそう思う。
 それを避けるためには仕組み、仕掛けが必要だ。
 ボクなら心掛けていることは一つ。初対面や初対面に近い人からの
提案、誘いにはできるだけ乗る、これだけだ。

 「こんな会をやってます」「演奏会があるんです」「セミナーがありまして」、
時間の都合があるから、もちろん全部に出席するわけにはいかないが、
できるだけ参加する。これ一つでいつも見る景色とはかなり違った場面展開
があることは確かだ。

 今年、正月、知り合ったばかりの中国の方と一緒にその方の生まれ故郷を
訪問した。先週の日曜日、島根県に研修旅行に出かけた。

 どちらもとても楽しく、かつ格安で、「中国人が薦める地元料理のお店」
にも何件も連れていってもらった。研修旅行は両親も連れて行ったが、当初は
文句タラタラだったが、終わりの方になると「次はいつあるのか」だって。

 これらの誘いに乗るとき、ボクはいつも内容も聞かないし、それが自分に
とって役立つかどうか、参考になるかどうかなど、一切考えない。
 おもしろいかどうかは、分からないからね。
 ここが肝心なところだ。

 人はどうしても「自分のこやしになるかどうか」をまず頭で考えようとする。
 人は自分とは関係ない分野を「とりあえずやってみよう」とは思わない
ものなんだ。だけど、ボクが思うのは「関係ない」のは知らないから、でも
あるわけ。自分で狭くとらえて、「これがわたしの関心事」、そんなふうに
考えているんじゃないかな。ボクは全く違う。

 知らない場所には知らない人たちや、知らない出来事が待ち受けている。
 「それを楽しい」と思えれば、これほど楽しいこともない。

 バランスってあるんじゃないかな。
 人はまず自分にとって必要なことをまず仕上げるもの、それはボクも同じだ。
 だが、それでは将来につながる何かにはたどり着けないのもまた事実。

 今、やらなければならないことはきっちりこなし、ただし将来、方向性
が変わるかもしれないから、そんな気持ちをどこかに持ち、軌道修正していく
ことを念頭に入れ、他人の誘いに気軽に乗ってみよう。あなたの毎日が今より
もっとずっと楽しくなることは確かだ。ただしリスクはともなうよ。

2011年10月21日

こだわり

 人はそれぞれこだわりを持つべきだと思うんだ。
 ボクは中学を卒業すると同時に京都に留学させていただいた。初めての
夏休み、朝から夕方まで猛練習が続いた。ほかの選手たちも同じメニューを
こなしていた。

 夏休みが終わったとき、不思議な感覚を覚えた。自分のことをバカだ、
才能がまるでないと考えていたが、すさまじく上達している自分を見つけて
どう説明していいのか分からなくなっていた。それにもまして「やれば
できるんだ」を見つけてすごくうれしくもなった。

 このときの話は今も時々させていただくが、みんなに楽しんでもらえる
みたいだ。自分が高校生だったころと比べてあまりにも環境が違っている
からかもしれない。

 その後、ボクは社会人になってもこれらの特徴を発揮するようになっていた。
 今でも本は毎月25冊以上は買うし(少なくとも)、日曜日で時間の取れる
ときは一日11時間くらい本を読む。

 一日11時間というとお昼ご飯のときをのぞくと「全て読書」している
ことになる。もうこうなってくるとこだわりというか、徹底って感じかな。

 要するに、ボクは「これだ」と思うと徹底してそれをこなしていくというわけだ。
 その集中はちょっと普通ではありえないほどのものだと思う。
 ボクは高校生のときの猛練習をその後も活かしているわけだ。

 時間を集中させるとおおかたのものは解決してしまう。できなかった問題を
解くこともできるし、上達もする。そのとき、人は自分の才能に気づくの
だと思う。

 要するにね、人はみんな才能や能力を有しているんだ。それをどうやって
発揮するかと言えば、時間の集中しかほかにない。「あいつにこれをやらせ
たら決してかなわない」はだれにだってできることなんだ。

 だから、それぞれこだわりの分野を持ってそこに時間を集中させればいい。
 どれだけつまらないことであっても、一般の人がやらないことであっても、
集中させたら意外な効能があるものだ。「たまに趣味で海に釣りに行きます」
なんてのはダメだと分かるだろう。やるなら、とことん。時間の集中だ。

2011年10月20日

遊ぶ

 今月に入ってから新しく出会った人の数は20人くらいだろうか。毎月
少なくとも5人は初対面の人と出会っているはずだ。

 出会ってこちらが名刺を差し出して、それっきりのこともよくある。
 相手からはもらえないわけだね。もちろんこちらはその後反応なし。

 名刺交換をしてもそれっきりの人が実に多い。それはなぜなのだろう。
 ボクたちは自然界に放牧されているわけだ。だからお互いが出会うためには
時間と場所を約束しなければならない。その、そもそもの段取りをやって
おかなければなにも始まらないよね。

 その意味からしてなにか会をおこなっていると話はやりやすい。
 「わたしたちはこんな会をやってます、お気軽にご参加ください」って
話せば都合がつけば参加してくれるかもしれない。そのときは成立しなくても
後々成立することもあるだろう。

 ボクはこの社会をこんなふうに見てるんだ。
 「この社会にはたくさんの人間がいる。それぞれみんなバラバラだ。その
バラバラな中から自分と似た考えの人を見つけだしていく作業をする」かな。

 それからすれば、いくらたくさんの人間がいてもみんなが同じ考えを
しているはずはない、になる。都合の問題もある。
 だから、探さなければならない。

 ボクも前はよく「座して待つ」みたいなところがあった。こちらがしっかり
していればきっと探してくれるはず。どこかそんな期待があった。だけど
待てどもやってこないね。そういうものなんだろう。

 あなたもさ、待ってちゃダメなんだよ。名刺を交換したから、きっと向こう
がなにかしてくるだろう、じゃダメ。「友達になろう」「仲間になろう」
「同じ方向を向いてなにかやろう」、積極的に方針を打ち出してなにかやれよ。

 ボクが見るところ、みんなは「なんか楽しいことないかなー、だれか
なにかやれよ」と思ってる。お金を出して遊園地で遊んでる感覚なんだな。
 「こんなにお金を出したのにあまりおもしろくない」って。
 遊ばせてもらうんじゃなく、遊べよ。どうせだから。

2011年10月19日

話し言葉

 あれはいつのことだったかな、25くらいだったと記憶してる。ほぼ
だれとも話せなくなっていた。

 ウツウツとした気分になったってわけじゃなく、だれにもあると思うが、
中学、高校くらいの話し言葉が社会人として通用しなくなり、頭の中で
マゴマゴ考えているうちに黙り込むことが多くなっていたんだ。

 それまで、自然に「なに、やってやがんだ」とか「そんなの知ったこと
じゃーない」なんて口にしていた。だが、社会には実にたくさんの人たちが
暮らしており、年齢層も幅広い。「友人にはこう」「ほかの大人にはこう」と
使い分けしてるつもりだったが、いいかげんだるくなってきた。

 「もうさ、社会人に通用する言語だけにしよう」って決めた。それから
しばらくするとおかしなことが起こった。中学の同級生と電話していて気づいた
んだが、ていねいな言葉で話してる自分に気づいておかしかった。

 頭の中では「おいおい、同級生相手だぜ」と思うんだが、すっかり社会人
対応になっていた。

 そのころからボクは自分が使う言葉についてかなり神経をとがらせるように
なっていた。人と話していると「池田さん、そのよいしょっていうの、やめま
せんか」と言われたりする。立ち上がるときに使うこのよいしょ、言われた
瞬間に「二度と使わないぞ」と決めた。

 ほかにもなにげなく「かったるい」などの言葉を使っていたらしいのだが、
指摘され使うのをやめた。
 人はみな子供のころから言葉を使う。だが、免許皆伝されたわけではない。

 もっともっと自分の話し言葉について神経をとがらせ、その上で楽しく
話すようになれたらいい。それにはまず、他人の意見をきちんと聞き、
納得したらすぐ改善する。

 「これは自分の内面のことだから」みたいな自分独自論を展開するのはやめよう。
 それを口にすると相手はしらけてしまって指摘することをためらうようになる。
 要は指摘してくれる人は数少なく、だが、一人が指摘してくるということは、
ほかの多くの人たちも実感してると考えた方がいい。人間は言葉から自分の
日ごろの姿勢を反省し、改善していけると思う。

2011年10月17日

意味がない

 ボクはよく「意味のないことをたくさんやってきました」、そんな
ことを口にします。本当のことです。
 それを聞かされた人は「おかしな人だな」くらいの印象だったと思います。

 ボクがこれまでずっと考えてきたことは「人にはみんな既知と未知が
あるものだ」でした。既知とは既に知っていることですね。

 未知とは、ボクなりに解釈すると「既知の外側にあるもの」になります。
 そして、ボクたちを取り巻く環境というものは既知よりよほど大きな
未知が取り囲んでいます。

 ボクが思うに、明治時代、大正時代の日本は「既知のみをしっかり磨いて
生きてきた」時代だと思うのです。だから老成という言葉も生まれたんだと
思うんです。

 老成という言葉は最近使われなくなりましたが、分かりやすく言うと
「若いのにしっかりした考えを持つ」くらいでいいと思います。
 明治、大正、昭和の時代は一つの観念をしっかり磨いてそれで良しと
してきたのではないかと思います。

 ただ、現在、これらの観念ではとてもやっていかれないと思います。
 要するに「間違いのない、正しい観念」そのものが存在しなくなっている
のです。

 ボクなりに考えてみるにボクたちにとって「意味のないこと」とは未知
そのものだと思います。「意味がないからやらない」と口にするとき、
改めて考えてみるに「それは知らないことだから興味がない」と口に
しているのと同じかと思えるんですね。

 でも「知らないことは興味がない、楽しくないのかは」分かりません。
 やってみないから分からないだけなんです。

 では、「やってみて楽しくなかったらそこでやめよう」になればいいと
考えています。人から誘われると「なになに、行く行く」と口にする人が
いますよね。そんな態度が大事なんです。

 多くの人がまず「これまでの自分」を持ち出して「オレにはそんなのは
意味がない」と考え、結論を出してしまっているのが実際だと思います。
 実にもったいない気がします。

2011年10月14日

方向性

 ボクはお金には方向性があると考えている。
 人はみな毎日、決まったことにお金を使う。夕食だったり、各種の支払いもある。
 それら日常使いは固定費と称される。これはだれにもある。

 だが、人はそれ以外にもお金を使う。
 他人からすれば「そんな、もったいない。バカみたいだ」と感じられるものも
あるはずだ。ボクはここにこそ意味があると考えている。

 お金と時間はどこか似ている。どちらも集めれば大きくなり、結果を出す
ことができるはずだ。

 ボクは初対面の方と出会ったとき、「近いうちにお食事でも」と誘うことが
多い。中にはそれが実現することもある。そのとき、初回の食事という
ことになるが、たいていなら支払いはボクが持つことが多い。

 これは多少は「ええかっこしたい」もあるのだろうが、実は違う。
 お金というやつは「支払ったものは元を取りたい」気持ちが強く働くものだ。
 そう思いませんか。

 研修会でもセミナーにおいても参加費5000円のセミナーに欠席する
人はいない。これが無料だと「タダだし、ちょっと風邪気味だから休もう」と
気軽に欠席できてしまう。お金にはそういう魔力がある。

 うちの会社においても無料の催しは当日まで何人集まるか分からず対策が
立てられない。
 これらの力を利用しない手はないだろう。

 要するに充実した時間にするためにはお金をどこに集めるか、はとても
大きな意味を持つということだ。ボクは自分が開催する食事会の講師役の
人の費用はボク個人が支払っている。

 一般的には講師役の費用も会費で集めて充当するのが妥当だろうがそれは
しない。ボク個人が支払うと「意味のない会など開かない」抑制が強く働く。
 より真剣になれると言った方がいいかな。

 お金と時間は集めると一つの大きな力になる。一つ一つはあまり重要視
できなくとも、その集積はやがて大きな力になると信じてる。
 また、逆にお金を支払って真剣になれる背景を用意するという考え方もある
はずだ。

2011年10月13日

とらえ方

 ボクの知り合いの社長でこんな人がいる。とにかく何でも知ったかぶり
するのである。
 「あー、あれ、うちの会社がやったんです」「あれでしょ、ボクが手掛け
たんですよ」「あのプロジェクトはとても大変だったんです、だけど苦労した
甲斐がありましたよ」。

 で、ボクはこれらの話を聞かされると「オマエの一日は48時間くらい
あんのか」って問い詰めたくなってしまうわけ。
 だけれども、現実にはそんなことがあるはずがない。
 彼だって一日は24時間だし、会社でおこなっているプロジェクト全てに
具体的に関わっているわけではないはずだ。

 では、どうしてそんな態度を取ることができるのか。
 ボクは彼を見ていてつくづく思うのは、要するに彼はその出来事に対して
「少し上をいき」「飲み込んでいるものだと」思われる。
 要するに、これはだれにもできるということなんだ。

 従業員という立場であればどうだろう。
 「あー、あのプロジェクトですか、うちの会社で、あの部署がしっかり
やってますから」になるはずだ。ここに、大きな大きな違いが発生してる。

 ボクの知り合いの社長の場合、必ず「あーそれはうちがやってるんです」
になる。要するに「とらえ方が大きく、それの少し上をいく。飲んでかかる」
わけだね。

 だが、聞いてる側からすれば「あれはボクがやってるんです」と聞かされ
ると「こいつがやったんだ。こいつはすごい」とか思ってしまうが、現実
には「彼の会社の人たちが頑張って仕上げた」だけだ。
 ボクは彼を見ていてつくづく「物事はこうして飲み込んだ方が良いよな」と
いつも感じてしまう。

 あなたはこの日本という国を見て「あー、日本はオレが作ったんです」
なんて決して口にできないだろう。せーぜー「この国に住まわしてもらって
ます」だろ。だけど違うんじゃないかな。この国に住んでいればだれだって
「この国を作ってる」。

 いろんな行事にも参加するだろうし、いろんな活動もやってるはずだ。物事と
いうのは「とらえ方一つ」でもっと活動的になれたり、積極的になれたりする
ものだと思う。その背景には「その物事の少し上をいく」ことだと思う。
「飲んでかかる」わけだ。
 この国に住んでいればだれだってこの国の創造主だ。そのつもりでいこう。

2011年10月12日

観念

 ボクたちはある観念につきまとわれていると思う。
 ボクはよく「池田さんは山口の人ですか」と聞かれる。聞かれて、「そうか、
オレは山口の人間だったのか」、改めて自分がどこから来たか気づいた。
 そして「はー、そういうくくりもあるのかー」って改めて驚く。

 ボクは高校になるとき単身、京都に留学してる。京都に知り合いはなく、
あの人口の多い街にたった一人だった。ただ、留学先の先生はそれを知ってか、
「毎日すさまじく忙しい日程」を組んでいただいたおかげで、さみしいとかは
感じなかった。(多少、皮肉こめて)。

 中学生までのボクが抱いていた京都の街は、もう全く、修学旅行の範囲を
出ていなかった。「きよみず寺や金閣寺がある観光地」の扱いだった。ただ、
ボクはきよみず寺も金閣寺も行ってない。金閣寺も銀閣寺も行ってない。

 留学が始まるまでは魔物みたいな扱いだった京都の街だが、毎晩食べる
ところは決めてあり、銭湯に行って食堂で食事する。当たり前だがそんな毎日が
続く。慣れてくると要領も覚え、楽しみも見つける。
 近くにファミリーレストランができ、夜中に何度か出かけた。
 「こんなことができる高校生なんていないよな」なんて思いながら。

 ボク自身は毎日、大変な生活でフーフー言っていたが、学校の同じクラス
のやつらからは「え、池田、一人暮らしけ(関西なので)(尋ねています)
うらやましい」って言われていた。内心では「こっちは年がら年中、すさまじく
忙しくてな、金閣寺も銀閣寺も行けないんだよ」なんて思っていた。

 高校2年の終わりごろ、胃痛を抱え精密検査を受けるも、異常なし。
 内心では「どうか異常がありますように、たまにはゆっくりしたいよー」
なんて思っていた。そして。京都からこっちに戻ってみると「関西弁を話す
青年に」自分がなっていた。知らない街にいるみたいだった。
 京都にいたころ、あんなにも「帰りたかった場所」なのにね。

 ボクはその感覚で今もってやっている。「どこの人間か」ではなく、
「自分がいるところが世界の中心」ってわけだね。京都は全く知らない街
だったけど、それなりにやっていくことができた。観光客の目線で見る
京都の街とは違った顔をこちらに見せた。どこだって同じことだ。

 「楽しければ、楽しいことがあればどこだってかまわない」その感覚が
あれば十分じゃないか。「なになに県の人間です」っていうのは、この時代、
もうズレてるよ。

2011年10月 7日

トイレ

 毎日、どこかのトイレを掃除してる。掃除はとてもおもしろいと思うな。
 自宅のトイレ。黄ばんでるのが気になって気になって。

 いつだったか、ぞうきんできれいにするべく磨きに磨いた。
 だが、いくらやっても取れない。

 どうやらあの黄ばみ、石化してるみたいだ。なので金属のヘラみたいなものを
用意してゴシゴシ削るとようやくきれいになった。ゴシゴシやると本当に石化
してるのがよく分かる。
 どこにも黄色いところがなくなってとてもすがすがしい気持ちになった。

 トイレはしゃがむことが大事だと思う。
 しゃがむと汚れが見えてくる。普段、使用しているときはあまり気に
ならないね。しゃがむと「えっ、こんなに汚れてたの」とか思えてくる。
 ほこりもすごいね。

 タイルは黒くなってるところもある。あれ、いくらぞうきんでこすっても
きれいにならない。ぞうきんでゴシゴシやって、窓を開け放して乾燥させると
「少し黒く見える」くらいのところまで落ち着く。
 どうもあれは汚れではなく、タイル地の中にまで入り込んでいるみたいだ。

 さて。
 トイレの黄ばみだが、実はこのごろ元に戻ってきた。あの黄ばみ、ある
特徴があることに気づくだろうか。あれができるところは決まっているのだ。
 ヘラでゴシゴシこすったから、少し傷がついたのかもしれない。
 また汚れてきた。

 あれを見ているとこのように思うんだ。「人間の身体の中の汚れも同じところ
につくのかな」って。配管が人間の血管や細胞と同じということだね。

 少し時間が経過すると同じところが汚れるのも考えてみれば似ている
かもしれない。あの、ヘドロみたいなやつを取り除かないと人間も病気に
なるってことだろうな、なんて思うんだ。

 お酒が好きな人、タバコが好きな人。お肉ばかり食べる人。
 同じものが沈殿していくのかもしれない。
 トイレの黄ばみと格闘していると本当にそんなことを考えてしまうんだ。
 あなたもたまにはトイレ掃除してみては。身体の掃除も必要かもね。

2011年10月 6日

コロンブス

 「コロンブスの卵」なる言葉があるらしい。どんな意味かというと「教えて
もらえばどうすればいいかたちどころに分かるが、教えてもらってないと
どうしたらいいか分からない」おおかた、そんな意味のようだ。

 「卵をタテに置いてみてください」、そんな設問があるとする。その答えを
知れば「なんだ、そんなことか」だが、分からない人は分からない。
 そんなことがこの世にはたくさんあるものだ。

 先日、「池田さん、飲みに来ませんか」と誘われた。で、出かけた。当日だ。
 それも50キロも離れてる。車で出かけ、食事した。夜中の1時くらいまで
飲んだり食事したりしていた。カラオケも歌った。
 もちろんこのままでは帰れない。

 誘った人が「その日泊まる予定」のビジネスホテルに「空いてるか聞いてみます」
と電話を入れてくれた。幸い、空いており宿泊することができた。
 ボクにはこの手の話が時折、発生する。

 ビジネスホテルにはいつもとても感謝してる。その手の施設がなければ成立
しない話だからね。宿泊して翌日は当たり前に行動を開始できた。
 でなければ、「どうやって帰るのか困るだろ」と拒否しなければならなかった。

 この視点を利用すればいろいろ応用範囲が広がる。
 50キロ、60キロと離れた友人がいるとする。夜、仕事が終わってから
車で遊びに行くこともできる。友人のところに宿泊するか、ビジネスホテル
にすればいい。これでめでたく友人との食事ができるわけだ。

 前に石垣島に遊びに行ったことがある。ボクたち中国地方に住む人間は
一度、福岡に行き、そこから沖縄の那覇に飛び、乗り換えて石垣に向かう。

 が、石垣島には東京から直行便がある。要するに、石垣島は中国地方より
東京の方が近いのだ。ボクは不思議な感覚を覚えた。東京からはひとっ飛び
で、直行便で2時間弱だからね。

 頭を切り替えよう。遠く離れた友人と遊ぶためにはいろんな方策があっていい。
 そのとき、あなたは不可能を可能に替えたことになる。
 「中国地方より東京の方が石垣島に近い」、そんな考えを導入するべきだ。

2011年10月 5日

全力

 人は自分のためには全力を出せないけど、他人のためならいくらでも出せる。
 ボクの考えの中にこれがあると思っている。それをなぞってる面がある。

 ボクはよくパーティーを開催する。これ、自分のお祝いではなく、全て
他人のパーティーだ。不思議と全力が出せる。

 人のためになにかする。すると全力が出せる。
 この相関関係は知っておいて損はないと思う。

 ではなぜ、他人のための動きは全力が出せるのか。
 ボクの場合、数ある行事でその実感はとても強い。それはうまくいけば
その人に喜んでもらえるし、うまくいかなくても、また周囲の反応が悪くとも、
あまり気にならない、が挙げられる。

 自分自身のパーティー開催を考えてみよう。「パーティー、するんです、
来てください」と口にして「なんで、嫌だよ」なんて言われたらへこんでしまう。
 「興味ない」「関心がない」なんて言われたら大いにへこんでしまう。

 だが、他人のパーティーならへこむことなどない。そうした反応をごく
自然に受け止められる、冷静に反応することができる。はいつもやっていて
実感してる。

 独立記念パーティーを考えてみよう。
 知り合いの中でそんな人が現れると、パーティーを持ちかける。
 そのとき、よく聞かされるのが「いやー、こんなの、自分自身ではやらな
かったですね」だ。

 「わたくし、これから独立します。ですのでパーティー開きます」は
できないと聞かされる。「オマエはパーティーを自分でやるのかよ」と
突っ込みを入れられそうで嫌になるんだろう。

 パーティーというのはそもそも周囲の人たちがやってあげるものなの
かもしれない。
 自分の動きの中に「他人のための動き」みたいな感覚を持っていい。

 そのとき、きっとあなたは自分の行動力に驚くに違いない。
 「なんだ、オレ、今、全力を出してるじゃないか」って。

 ボクの場合、特にそうだが「自分のための動き」はとても照れてしまう。
 自分の中でバランスを考え、(ほぼ24時間、自分のための動きはやってる
とも言える)自分のためと他人のため、を取り入れてみてはいかがだろう。

2011年10月 3日

自由人

 かなり前のことになるが、旧知の先生とレンタルショップでばったり出会った。
 別れ際にこんなことを言われた。「池田さんは良いなー、ここでなんでも
借りられるから」。すぐにピンときた。
 なにも言わずに別れたけどね。

 要するに先生というのは先生としての自覚があり、やれることとやれない
ことがある、ということなんだ。ボクは自然な会話からそのような存在を
強く感じることになった。

 そこで思うんだ。それがボクたちの足かせになってることをね。
 ボクにもあったよ。高校のとき京都に留学したが、「留学先の名をけがしては
ならない」みたいな感覚があった。それはいいことだが、それによって行動
が制限されるのはおかしい。って今は思うな。

 ボクはよく「池田さんは自由人だから」って聞かされる。では問うが
あなたは自分を何人と表現するのだろうか。「規制にしばられて身動き
取れない存在」とでも言うつもりか。実は半ばそうなっているね。

 他人のことは自由人と名付けることができるが、実は自分の存在は定義して
いない。自分を表現するつもりがないに違いない。

 上記の先生にしてもそうだが、ボクにしろ、だれにしろ、実は自由人なんて
存在しない。自由にふるまってる人なんていやしない。ではどうしているのか。
 規制を感じつつ、そこから突破すべく考え、悩んでいるってことだ。

 「うちは従業員が50人もいる会社だから」「おかしなことをしたら会社
に迷惑が」「外を歩けなくなる」とか思うんだろう。犯罪に加担してはなら
ないが、正しいことならどしどしやればいいだろう。失敗しても会社に迷惑
がかかるなんて、ボクは思わないけどなー。
 「あ、また、池田が失敗した。バカだなー」と思われてるに違いない。

 ボクはやりたいことが一つでも多くやれることが自分の成功だと考えている。
 なにが楽しいか考え、楽しいと思うものに全力を傾ける。
 「それをあなたがやらなくても」ってよく言われるが、関係ない。
 他人がどう思うかじゃなく、自分がそれをどう感じるかだ。

 実は自由人になるのは簡単じゃない。自由人になるために不断の努力を
重ねているといった方がいい。それから自由人というのは主に頭の中の
動きだと思うな。頭の中が先だ。