2011年9月30日

やる方向

 ボクにはこれまでずっと口にしてきた言葉がある。
 「やる方向で考えましょう」だ。

 物事、どんなことでも「やる、やらない」となったら圧倒的に「やらない力」
が強烈だ。意外に思うだろうか。ボクは思わない。

 なにか行事をやろうとする。
 すると「なぜ、あなたがやるのか」「そんな小規模にやっても意味がない」
「うまくいかなかったらどうするのか」。

 これらの問いにボクはいつも「やらない理由はいくらでも見つかる。そして
やらない理由を口にした人は圧倒的に強い立場だ。うまくいけば
(問題点を指摘したからうまくいった)と言えるし、うまくいかなければ
(ほらな、言った通りだろ)になる」。

 だが、その人の意見を受け入れてなにもやらなかったら、なにも発生
しないよね。それで果たしていいのかどうか。

 サンタさんになったときもそうだった。
 「そういうのは公的な機関がやることだから」とか「人気取りでしょ」
など言われたものだ。ボクはもっと自然に「クリスマスの日にサンタが
来たらうれしいだろうな」と思っただけなのだが。

 大規模か小規模かというのはある。大規模にできないから小規模にやる。
 だけどね、大規模にならないからやらないというのであれば、やれることは
限られるよね。

 サンタさんは周囲がどうであろうと実施した。やって良かったよ。
 もちろん問題も発生した。だけどね、問題は実施するから発生するんだ。
 その問題に前にたたずんで「どうしようか」突破口を探せばいい。

 この世において「やらない」のは実に偉大だ。やらなければ失敗もないし
恥ずかしいこともない。そして、他人に対しても偉大な力を持つ。
 「やって失敗したら恥ずかしいよ」。
 どんな小さなことでもいいから、これからは「やる方向」で考えよう。

 バカにされたっていいじゃないか。
 人がやろうとすることに反対するのはいとも簡単なことだ。そして強大でもある。
 だけどね、果たしてそれでどうなるの

2011年9月29日

自分

 ゆうべ、初対面の方を含めて6人でお話しさせていただいた。
 初対面の方もいるのでそれぞれが自己紹介する。すかさず質問が飛ぶ
のでそれにも応える。このやり取りはすばらしいと感じた。

 みんなもさ、たまには何人かで集まって自分のことを話す時間を持つといいよ。
 そのためには食事会を開き、いつものメンバーではなく、初対面の人も含めて、
そのような場を設定すべきだと思う。

 やけにしんみりと自分のことを語るかもしれないし、これからの抱負が
自然に口から出るかもしれない。そんな、少しまじめな時間を持つことも
大切なんじゃないかな。

 ボクはこんなふうに自分のことを話すとき、なにか自分の身体が借り物
のような気がするときがあるんだ。いつもは自分のことを自分で規定して
生活しているのだが、自分の新しい面が口からこぼれ出る、そんな感じだ。

 だから、みんなもそんな時間を持つよう努めるべきだと思う。
 つい、いつものメンバーで、楽しい食事会、になりがちだと思うが、率先
してそのような空気を作ることがたまにはあっていい。

 ゆうべも感じたんだが、ボクの中には先駆的なものを求めるところがある
ようだ。

 「風っていつも都会から吹いてきますよね。(今、都会でこれがはやってる)
(都会にはどこにもたくさんあるよ)。だけどボクはイナカから吹く風があっても
いいと思うんです。イナカで取れる野菜においしいフルーツってそんな感じ
じゃないですか。都会の人たちも都会の真似をしたイナカに旅行したいとは
思わないんじゃないですか」。おおむね、そんな内容のことをお話しさせて
いただいた。

 これらの話をするとき、ボクは自分の身体が借り物のような気がして
仕方なくなる。「えっ、オレってこんなことを感じていたんだ」みたいに
思うんだ。

 きっと自分の本音や本心がさらけ出されたということに違いない。それに
自分で気づくなんて。おもしろい展開だと思う。自分のことを再確認して
また明日からいろんなことをやっていく方がブレも少なくていいと思うんだよね。
 いかがでしょう。

2011年9月28日

左利き

 だれしも利き腕があると思う。ボクは右利きだ。
 で、先日、とてもおもしろいことに気づいた。携帯を操作するときだけ
左でやっているんだ。それを見つけたときといったら、おかしくて笑ってしまった。

 そこで、なぜ、携帯だけ左で操作するのか考えてみた。どうやら、
ポケットが左にあるから、らしい。これまで一度として「携帯は左」など
考えたことも決めたこともなかった。人間、やればできるものなんだな。

 人は利き腕があり、「これは絶対だ」と思っているが、案外そうでも
ないのかもしれない。

 ところが。この利き腕というやつ、意外なくせ者でもあるのだ。
 ボクはスキーをするのだが、スキーをする上でこの利き腕はやっかいなんだ。
 利き足って言ったらいいのかな。足にもあるんだ。

 で、スキーというのは両足、きちんと同じようにターンするととても
かっこいい。ところがさ、利き足のせいでそれを難しくさせるわけよ。
 ボクの場合、右折ターンが利き足だ。右折は感覚的に理解できるって感じ。

 左折だとそうはいかない。この、利き足、ほったらかしにしておくと
とても見た目が悪くなる。右折のときには上体をきちんとひねってターン、
左折のときには「今、ターンしようか、今、ターンしようか」、って感じで、
しまいには得意な右折で逃げてしまう。

 これを続けていると右折ばかり上手になり、見た目にはなはだかっこ悪いもの
になってしまう。
 だからさ、いつからか、左折の練習ばかりするようになった。
 続けていると左折もうまくなったけどね。

 スキーなどは交互にきちんと滑るときれいに見える。利き足、利き腕の
存在はそれをあやうくさせるわけだ。

 日々、なにげなく使っている手足だが、あなたも毎日、同じ方ばかり
使っているだろう。そして、そこはますます磨きがかかる。反対側は
不得意なはずだ。マラソンの選手も左右同じ筋力になるようトレーニング
してるらしいよ。

2011年9月27日

疑う

 ボクは中学を卒業するとき、大いに社会と闘った気がしてるんだ。
 内容を聞けば、闘いだとよく分かってもらえると思う。

 中学3年の秋だったか、卒業すると同時に単身、京都に留学することに
なった。打診があってものの5分で決めてしまったんだけどね。それからが
大変だった。中学のときあまり勉強してなかったし、一人で京都で生活
できるのか、不安もあり、絶望もあった。

 それはいいのだが、技術的な問題が立ち塞がった。なんと、中学卒業と同時
に他県に留学なんて、許されてなかったんだ。役所からは次から次に問題
が襲いかかってきた。

 母親から「おにいさん、あんたが一人で留学することはできないシステムに
なってるんだって」、「おにいさん、他県から京都の公立高校は受験できない
らしいのよ」

 「おにいさん、公立高校は受験できないから、私立を受験するしかないんよ」。
 これら一つ一つを片付けるのはとても困難だった。

 よって、ボクは母親と一緒に京都に転出の形を取り、もちろん公立高校は
受験せず、私立高校を一つだけ受験した。失敗していたら中学浪人と決めていた。

 ここでボクは言いたいんだけどね、要するにこの社会ってやつは、
やりたいことがあっても自由気ままに何でもやらせてくれるわけじゃないんだ。
 役所はその最たるものだと思う。

 「そんなシステムはない」で却下されてしまうんだ。ただね、役所がそんな
ところだと知り、それを越えるために家族が知恵を発揮したことはとても
良かったと考えているんだ。

 ボクはみんなにも言いたいんだ。この世というものはやりたいことがあっても
そのままやらせてもらえるわけじゃない。いろんなものが邪魔するように
できてる。それが都合が良いと言われてしまえばそれまでだ。

 やりたいことを用意する。いろんな邪魔が入る。それをどのように排除
していくか。が、実は問われていると思うんだ。
 「できないんだって」「なんか、できないらしいよ」「それは無理みたい」、
どことなく、そんなセリフを聞かされると「そうかー、できないのかー」と
思ってしまうけど、今一度、それを疑い、突破する道を探してもいいん
じゃないのか。

2011年9月22日

こだわり

 人はみな独自の、自分ならではのこだわりの視点を持つ必要があると思う。
 それには情報の仕入れ先を限定せず、いろんなところから仕入れてくる
ことを心掛けることが大切だ。

 ボクはなにげなく子供のころ、タイガー戦車で遊んでいた。そして中学
になって、それがドイツ軍の戦車であることを知り、そこからドイツマニア
みたいになっていった。

 ドイツ軍に関する本は片っ端に買い求め、読むようになった。そこで
はたと気づいたのは、「あれっ、こっちの本にはこのように書いてあるぞ、
あの本とは違うことが」なんてことだった。事実は一つしかないのに、
二つの事実があることになっている。要は「どっちかがウソだ」。

 それから立場によってモノの見方が変わってくることを痛感させられた。
 ドイツ軍に関して言えば、「それを書いたのがドイツ人なのかアメリカ人
なのか」によってとらえ方、解釈が変わってくる。アメリカ人が書くと
「少しアメリカ寄り」に描写されるのは当然のことだ。

 ボクがドイツに関する映画を見られないのと同じだ。目線にフィルターが
かかるわけだ。「ドイツ軍の負ける映画は見たくない」わけ。

 そこにいくとドイツ軍の「オットースコルツォニー中佐の自伝」は今でも
はっきり覚えている。中学生(高校だったかも)のボクが読んでもはっきりと
「自分が体験した事実のみに基づいた話をしている。誠実な人なんだな」
なんていう印象を持った。

 オットースコルツォニー中佐は「とらえられたイタリアのムッソリーニ首相
救出作戦」などを指揮、実行した人物だ。
 中学生のボクが読んでもその人の内面、誠実さははっきりと分かった。

 実はね、世の中というものは虚実、ないまぜになっているものなんだ。
 ウソと真実があやとりのように組まれて存在してる。それをガタガタ
文句言ってもはじまらない。肝心なのは自分の視点を持ち、それによって
物事の虚実を見抜くことだ。

 「なにが正解で、なにが真実で、なにがウソで、なにが虚なのか」。
 「アメリカと日本は戦争し、悪い日本は負けました」。あなたはこんな
ふうに思ってはいないだろうか。それも一つの見方かもしれないが、たくさん
の情報を仕入れ、その中から自分だけの解答を見つける努力は怠っては
ならないと思う。

2011年9月21日

連携

 ボクも仕事関係の団体に入会してる。入ったときはかなりめんどくさかった。
 「仕事は自分のためにやるもんだ」、みたいな感覚が強かったからね。

 ただ、団体に属してみていろいろ活動すると分かることもたくさんある。
 団体で催し物をしたりするときなど、人数が集まるので広い会場で開催
できる、思い切って高いギャラの人を招致することができる、手分けして
作業するので一人一人は軽い動作で済む、などやってみなければ分からない
こともたくさんあった。

 反面、「この人はうちのお客さんじゃないしなー、やっても意味ないし」、
などと思わないこともなかった。要は良い点もあれば悪い点もある。それを
了解しなければやってられないというわけだ。

 人はつい、「自分のためになるか、ならないか」考えるものだと思う。
 ボクはそれを否定はしない。
 だが、果たしてその結果は、自分のところにきちんとはね返ってくるのか
どうか、たまには考えてもいいはずだ。

 商店街を考えてみよう。
 「自分のところのお客さんを大切にする。大切にしていればいい」と
思うだろう。間違ってはいない。ただ、「だれも歩いてない商店街の中、
自分のお店だけ来てもらえる」だろうか。

 少し遠回りの気もするだろうが、商店街が活性化することにより、自然
客足が伸び、自分ところのお店のお客さんも増えていく。

 必ずしもそのような結果になるとは限らないが、そんな気持ちをどこかに抱えて
いないと「なんで、一般大衆のために(商店街)つまんない手間を出さないと
いけないんだ」、みたいな感覚に陥りやすくなるものと思う。
 みんなが良くなって、自分のところも良くなっていく。

 周囲だけ繁栄されても困るが、周囲はガタガタ、自分のところは繁栄、
などありうると思うだろうか。

 先般、四国、香川を旅行した。
 「四国と言えばうどんじゃろう、うどんは食べないと」で探してうどん
をいただいた。県外のお客さんもひきつけているわけだ。
 これもそれぞれ1軒のお店でできるわけじゃない。「四国はうどん」を
定着させた先達がいたわけだ。ここに着目しなければならない。

2011年9月20日

一芸

 一芸は全てに通ず、つくづく実感している言葉だ。
 いろんなことを中途半端に上達するより、一つのことをとことん突き詰める
方がよほど大事だと痛感している。

 「囲碁が1級、将棋が1級」より、「これのみ何段」の方が大事だと思う。
 ボクは珠算8段、暗算9段だ。

 まだこの上に10段位があるにはあるが。8段になってみて分かるのは
その上の9段、10段の難しさだ。それまでよりよほど上達しなければ
到達できない。1級の人には理解できないだろう。

 ではなぜ、一芸に秀でることが大切なのか。
 ボクなりに感じたところを書いてみよう。
 まず、一つのことに秀でると、自分に起こったことだが「これはできないかも」
と疑うことがなくなる。これはとても大きい。

 スキーにチャレンジするとする。「できないかも」がないので「できて
当たり前」の感覚で取り組む。この違いがすさまじく大きいと思う。

 ボクは高校2年のとき、瞬間、ひらめいたことがある。
 それは。「この世にバカはいない」だった。頭の中身はみな等しい、そんな
ふうに思ったんだ。能力は与えられているが、それを使えるかどうかだけ、だとね。
 磨いてやらなければ使えないものだとつくづく感じた。

 ボク自身、中学生まで自分のことをバカだ、能力がないと思っていたから
こそ、そんなふうに思ったんだと思う。「なんだ、やればできるじゃないか」、
それに気づいたとき、本当に自分でも驚いたものだ。

 「人間は脳みそのうち3%ほどしか使ってない」とよく言われるが、
そんなことはない。使っているのは確かに3%だろう。だけどね、ボクの
計算能力に限って言えば3%部分を150%使い切っている。

 それでみんなが能力を発揮して分業していろんな大きなことが成し遂げられる
わけだ。そういう意味では今の世の中、天才などいないし必要ない。
 それぞれが各々の分野で発揮すればいいことだからね。

 一つの能力だけずば抜けて磨き上げる。ボクはそれはとても大切なこと
だと思う。「人間に不可能はない」とボクは単純に感じている。
 あなたはどうだろう。心底、そのように考えられるだろうか。

2011年9月16日

不思議

 地球にはさまざまな不思議、怪異現象がある。ただね、その全ては
科学で説明できると思う。現代の科学では解明できないとしても。

 先日、話していて思い出したのだが。
 「赤い雪」という話を聞いたことはあるだろうか。なんかロマンチックだよね。

 これは解明された。降って積もった雪にコケが生成する。そのコケが
赤い色をしていたわけ。解明される前にボクはこの話を読んだことがあり、
ワクワクして読んだものだ。解明されればしたで、「なるほどなー」って
科学の力を再確認するわけだ。

 今年だったか、去年だったかな、「魚が空から飛来する」事件があった。
 少しブームみたいになったね。あれは古くからある現象で、外国では
多数の事例が報告されている。「鳥がくわえて運んだ」「竜巻が巻き上げた」
などいろいろ説があるが、竜巻あたりが真相だろう。

 不思議なのは「降ったとき、まだ生きていた」なる証言があること。
 水と一緒に舞い上げられ、暮らしていたのかな。竜巻が水と一緒に吸い上げた
とするなら、今も上空に水と一緒に魚が浮遊していることになる。不思議だなー。

 古来、日本では竜巻のことを「カマイタチ」と呼んできた。
 ボクが読んだ本によると「そのカマイタチに手を触れると刃物で切られた
ようになる」などとしてあった。「真空状態になるからだろう」としてあった。

 ま、実際には強烈な風にて木片かなにかが当たってケガをしただけなの
かもしれないが。

 そういえば、少し前、テレビで「ケサランパサランの謎」をやっていた。
 ケサランパサラン、知ってますか。「毛が生えてて、持っていると幸運
が舞い込む」と呼ばれるモノ。「どこからともなく、やってくる」。

 このケサランパサラン、植物由来と動物由来があると聞いてホントに驚いた。
 植物由来が植物のタネ、動物由来はウサギなどの毛と身、の可能性が
高いという。ただ名前がユーモラスですばらしいよね。

 ケサランパサラン、どこからともなくやってきて、届いた家に幸運を
もたらす。そんな話の一つや二つ、あった方が楽しいんじゃないかな。
 不思議な話って、どうしてこんなにおもしろいのかなー。

2011年9月15日

動く

 ボクは実にいろんなところに顔を出している。自分でもあきれるほどだ。
 だが、みんなを見ていると必ずしもそうではないようだ。「なんで
そんな遠いところから来るのか」、よくされる質問だ。
 まず、ボクには距離の観念がない。近い、遠いをそもそも考えないように
してるんだ。

 いつだったか、知り合いに誘われて列車に乗って出かけた。往復2時間
くらいかかるところで「なんて遠いんだ」って思ったのを今でもはっきり
覚えてる。知り合いのよく行くお店で料理をいただいたが、そのとき
不思議な感覚になった。

 「このお店の利用者は本来、オレと出会うはずのない存在だ」なんて思ったんだ。
そこを利用するお客さんとボクとは全く接点がない。はずなのだが、こうして
出会っている。

 やはりボクの地元と同じようにたくさんの地元の人らしき人たちが食事
している。どこか自分だけ連れて来られた感覚につきまとわれた。
 だが、と同時に「こうして出かければ、本来、会うはずのない人たち
との接点も生まれるんだなー」、素朴にそう感じた。

 この感覚は初めてじゃない。中学を卒業すると同時に京都に留学した。
 そこで出会う人たちは全て、本来、出会うはずのない人たちだった。
 毎晩利用していた料理屋さん、毎晩行くお店(ここで朝食のパンを買う)。

 京都は関西弁で、「あかんで、ほんまに」とか聞かされると異星人のような
気にさせられたものだ。「たわん、たわんのんよ」(方言、手が届かない
の意味)と口にすると不思議な人を見る目線にだれもがなった。
 「たわんってなんやねん」。

 だけどね、自分のことを異星人だと認定してしまえばどうってことはなくなる。
 「わたくしは異星人です」でいけばいいわけだ。異星人だからどこにでも
出没する。時間が経てば異星人の扱いも消えていく。初めだけだからね。

 そんなボクからするとみんなはものすごく土着の発想が強いんだな。
 「わたしはここの人間です」がとても強く感じられる。ボクはいまだに
自分がどこの人間か分からない。「日本の人」くらいの感じなんだ。
 だからだろうか、外国人の友達もたくさんいる。外国人という感覚もあまりない。
 「おんなじ人間だろ」。
 あなたも自分をしばる見えない縄をほどいてみてはどうだろう。

2011年9月14日

けじめ

 ただ今、けじめはできるだけきちんとつけるようにしている。つもりだ。
 だれかと飲みに出かける。「よし、今日はオレの知り合いの店で飲もう」。
 その店がわりと気持ち良く、料理もおいしかったとする。

 またその店を利用したいなと思う。そのとき、彼を通して予約すればいい。
 「あー、ごめんごめん、先日の店、すごく良かったから、あんたの名前で
予約しといてくれんか」。

 こんなときめんどくさがる人なんてまずいない。
 「え、あんたも気に入ってくれたか、うれしいなー」だ。

 または、店に直接電話するときは「あー、わたくし、先日、だれそれと
一緒にお邪魔したなになにと申します。時間がないので直接電話しましたが」と
彼の名をきちんと告げることが大切だと思う。

 であれば、次回、彼がその店を利用したとき、店の人から「そういえば、
先日の男性が来てくれましたよ」くらいの話はするものだ。
 で、彼もお店の人に大きな顔ができるというものだ。

 それらがあってから、あなたがその店の常連になっていくのは別におかしく
ないと思う。だが、なにもせずに常連ヅラしていると彼も楽しくないはずだ。

 つい先日のことだ。
 ある男性がこんなことを口にする。

 「あいつはさ、オレが紹介してやったのに、電話の一つもないんですよ、
どう思います」と聞かせてくれた。お客さんを紹介したが、「これこれ、
こういう方が来られました」もなかったらしい。もうそれが高じて「あいつに
紹介するのはやめました」なんて話していた。

 お礼うんぬんの話ではないと思う。次回、来店されたときなどに一言あれば
十分だろう。「実はね、先日、あなたの知り合いが来られて、ありがとう
ございました」があればいい。

 これらをときに忘れて「オレは一生懸命やってるのに」とか口にする人が
いるが、事態は好転しないだろう。旅行に出かけたらほんのわずかでいいから
お土産を買い、出会った人に渡すといい。300円くらいでいいんじゃないかな。
 これだってやらないよりはずっと良い。

2011年9月13日

張り

 かなり前のことになる。そのころ、あまり自信がなかったのだろうか、
よく周囲に対して「カゼ、ひいてるんです」なんて話すことがあった。

 実際、カゼをひいていたのかもしれない。だが、なぜ話すかと言えば
話すと少しだけ楽になった気がしたからなんだ。他人の同情を受けて
立ち直れる自分、みたいなところがあった。

 それからしばらくして「なんか変だなー、これ」と思い、そういうことは
一切やめてしまった。当然だろう。

 確か、それからしばらくしてからのことだと思う。
 「わりと大きな声で話をしてみると」、周囲がシャキッと、空気がピン
と張り詰めるように変わることを発見した。
 大声と言うより、「張りのある、張り切った声」とでも言えばいいかな。

 ボクは内心、「たった声だけでこんなにもいろんなものが変わるのかな」、
不思議な気持ちにさせられた。張りのある声にはどこかそうした作用がある
ようだ。それからは元気がないとき、気持ちが沈んだときなどは意識して
張りのある声を出すようにしてみた。

 すると、沈んだ気持ちがパッと明るくなる。
 「おかしいな、さっきまで暗く沈んでいたのに、なんでこんなにウキウキ
してるんだろ」、自分でもおかしな気分にさせられた。

 「張りのある声は気分まで替えてしまう力がある」ことを発見した。
 一日を始めるとき。一番良いのはまずは大声を出してみることだと思う。
 残念ながら、ボクもできてないんだけどね。大声を出してみると元気が
みなぎってくるのが分かる。

 「すぐに体調が悪くなる」みたいな人もいるだろう。ボクもそうだった
かもしれない。そんな人はまずは大きな、張りのある声を出してみるのも
一案ではないだろうか。「明るくなれたら大きな声を出してみます」
ではなく「まずはとにかく大きな声を出す」が良いと思う。

2011年9月12日

息子

 先日、ある会社の社長の息子と話してきた。前々から知り合いだけどね。
 ボク 「えーーーっ、あんた、ほかの従業員さんと同じ時間に出勤してんの、
なんで」。「社長の息子ならほかの方より1時間は早く出社して当たり前だよ」
 「小さな会社では社長が一番に出社するのが当たり前だろ」。だと思うね。

 なぜならば。小さな会社ではみんなの目線が社長やその周辺に当たるから、
なんだね。もうこれは避けられない。

 「あいつ、仕事できるのか」「立派な大学、出たって聞いてるけど、ホント
かいな」「じっくり見させてもらうよ」なんだ。
 従業員さんというのは「社長を見ながら」、それに合わせてお仕事なさってる
場合がほとんどだ。

 ボクは思うんだが、社長というのは仕事できなくてもかまわないと思ってる。
 できた方がいいけど、できなくてもいい。仕事ができる人はつい「なんで
オマエ、オレの言うことが理解できないの」になるけど、できない社長だと
「これもみなさんのおかげです」になる。そっちの方が良いことも多いね。

 ただね、姿勢はものすごく大事。朝、一番に出社するのはだれにだって
できるんだから、やればいい。
 ボクは20代のころ二つの職場で働いていた。だからいつも朝は6時半に
家を出ていた。30代になって一つの職場になったんだけど、当初は自宅で
ゆっくりしてた。でもなんか「なんだかなー」と思うようになった。

 家族とNHKの朝の連続ドラマを見て、ゆったりとした気分で出社していた。
 「こうやって流されていくのかな」なんてふと思った。「みんなと同じ
時間でなにか差がつくのか」って。それからすぐに替えた。

 毎朝5時半に出社することにした。当たり前だが、朝食は自宅ではなく
会社に着いてからいただく。自宅でならタダだが、コンビニで買ってから
行くので高い出費となった。「仕方がない」。

 お仕事というのは「できる、できない」だけじゃないと思う。その姿勢も
大きく問われていると思う。朝早く出社することはだれにだってできるん
だから。みんなの机を掃除してあげてゆったりとした気分で臨めばいい。

 小さな会社では社長とその周辺がカギを握ってる。それらの人たちの
態度でどう進むか決定されてしまうところがある。お仕事は自分のために
やってるんだからね。まずはそんな意識を持つことが大事なんだ。

2011年9月 9日

好都合

 このごろよく旅行に出かけてる。「旅行に行く」と表現していいのだろうか。
 父親に車をやめてもらった。(2年くらいになる)。
 ついては「できるだけ運転してあげるから」なんて約束をしていた。
 よって、旅行するにもなにをするにせよ、手段がなくなってしまった。

 だからボクに回ってくるというわけだ。「あんた(ボクのこと)、
いついつにどこそこに旅行に行くから、ええか」と聞いてくる。
 要するに車を運転して乗せていけというわけだ。
 よって「どこに行きたい」とか「ここに泊まりたい」など一切、できない。
 「九州のここに行くから、この日に出て、この日の夕方、戻る」だけ。

 旅行先を決めることができないわけで、なかなかもどかしい面はあるが、
好都合と言えば言える。旅行の献立を一切することなく、次から次に旅行
できるわけで。

 分かったことだが、ガソリン代、高速道路の通行料金も払わない。
 タダで旅行させてもらってる。旅館の宿泊代などもたいてい払わない。
ボクはドライバーだから。

 ただ、ここからが違う。
 ボクはドライバーなのだが、ドライバーゆえに、道路を走らせていて
気になった施設があるとすぐに寄り道してしまう。親も一応、文句を言うが
ドライバー任せなので「しようがないなー」、あきらめ顔である。
 旅館ではときにマッサージをお願いすることもある。マッサージ代は払う。

 よって旅行先は一切、決めることはできないが、考えてみれば楽しい旅行
をさせてもらえている。

 よくサラリーマンの中には「出張のついでにあちこち食べ歩きする」なんて
話も聞かされる。考えてみれば好都合で便利だ。一石二鳥だよね。

 「これはどうすることもできないが、これもつけ加えてみるか」、
そんな発想があっていいと思う。つい先日もドライバーをやったが、
「カタクリの花、見学」に誘われて見に行った。広島、世良で、一般の
お宅の裏庭だった。ついでってもう少しじっくりとらえ直してみると
おもしろいと思うよ。

2011年9月 8日

為替

 かなり前のことになる。知人がこんな話を聞かせてくれた。
 「旅行のたんびに両替するの、めんどくさいから、まとめて両替してある」
そんな内容だった。その額、40万円なり。こうだ。ドルに両替しておく。

 アメリカばかりでなく、ほかの外国においてもドルを持参し、その国
に着いたとき両替するわけだ。そのころドルの威信は今よりもっともっと
高かった。世界通貨である。
 ま、それはいいのだが、「かなりの損をしてる」なんて話だった。
 ドルに両替しておくということは、為替の影響をそのまま受けてしまう。

 どれだけの変動幅だったか覚えてないが、替わりに計算してあげると
40万円、両替してあったものが10万円以上の損になっていた。

 「たった、ドルに換金しただけで、こんなに損ができるんやなー」、
つくづくそんなことを思った。これは円高になったからだが、逆に円安
になれば10万円、儲かることもありえたわけだ。当人には「自分が
直接、為替の影響を受けている」なる認識はなかったようだが。

 そして。
 あれはどこの国だったか、旅行したときのことだ。銀行に出向き、ドル
に両替した。スペインかイタリアだったと思う。いや、ハワイだったか。

 そのころ、銀行の窓口では少し変わった光景が見られた。日本人がワイワイ
いってドルに換金していたんだ。ボクが住んでる街にはアメリカ軍の基地が
あるから、銀行の窓口に「日本円を差し込んだらドルが下から出てくる機械」
が設置してある。両替の需要はたくさんあり、自動販売機になってるわけだ。

 そのころ雑誌などでも「ドルに両替するため窓口に殺到する日本人」なる
記事を見つけたものだ。そのころ「さしもの円高もここで終わる」に
みんなが賭けたわけだ。残念ながらその希望は外れたが。
 「驚異の円高、ドルに群がる日本人」みたいに書かれていたな。

 ドルに両替してしばらく放置しておく。円安になればその変動幅が儲け
になるというわけだ。あのころ為替は140円くらいだったかな。

 先日も母親が話していた。「うわーすごい円高ねー、ドルに両替しよう
かしら」。ボクの発言は分かったことだが「今が円高なんて、だれが決めたの、
為替で遊ぶもんじゃない」だ。
 実は、為替とはものすごく怖いものだ。うかつに近寄るとヤケドをするよ。
 株でもよく似た話をしてる。「これだけ下がったんだから、もう下がらない」。
 「ここが下限なんて、だれが決めたの」。

2011年9月 7日

 どうしてみんなは本を読まないんだろう。不思議でならない。
 ボクは本もよく読むが、人ともできるだけ会うようにしてる。
 それは他人と話すことによって、自分を理解できることも多々あるからだ。

 あなたがだれかと話していて「それは違うんじゃないか」と思ったとしよう。
 なぜ、そう感じるかはその人と自分が違うからだ。ボクの経験でも
思うことだが、人間は自分の姿ばかり見ていても自分というものが見えて
こない気がする。

 いろんな場で、いろんな人たちと出会うが、そのときに強く感じるのは
自分なんだ。他人という鏡を利用して自分を見てる気がしてならない。

 ボクは実は「人間が好き」なのかもしれない。いろんな場に出かけて行き、
いろんな話をさせてもらううちにそんなふうに思うようになった。
 だけどね、自分とだけ対話していても絶対にそんな結論にたどり着けないと
思うよ。

 本もそうだと思う。
 本に書かれていることを読むうちに「あー、オレってこういう生き方が
合ってるんだ」とか「オレならこんな生き方は絶対しないな」と感じること
がある。「こんな生き方にあこがれるなー」なんてことも。

 人間、まずあこがれがあって、そこに到達しようと手段を考えるものだ。
 その意味からして偉人伝というものは大変に役立つ。

 読むうちに「あーこんな生き方がしてみたいものだ」など感じる。逆に
「この人は自分とは全くあい入れないものを持っているな」かもしれない。
 どちらでもいい。

 ボクは単純に「ライバルを持つ人は必ず伸びる」と思ってる。「ライバル
に負けてたまるか」と思うからで、それは日々、出会う人の中にもいる
だろうし、本の中にもいるはずだ。

 人間という生き物は自分とだけ対話していても自分の姿は見えない気がする。
 自分の目標も見えてこないんじゃないかな。
 「こんな生き方に強くひきつけられる」、まずはそれがどんな生き方なのか
理解しようと思うべきだ。
 そのためには人と出会うべきだし、それを嫌がってはいけないと思う。

2011年9月 6日

視界

 視界というものはとてもおもしろいものだとつくづく思う。
 ボクはこれまでニュージーランドを4回、旅行している。だが、今、
「もっともっといろんなところを回れたのにな」と思ってるんだ。

 そもそも、なぜニュージーランドを選んだのか。
 スキーを始めたことがきっかけだった。この世にこれだけ楽しいものが
あるだろうかと思った。その年の夏にニュージーランドに出かけた。
 もちろんスキーをするためだ。

 都合、四日間、いろんなことが楽しめたのだが、スキーしか頭にないボクは
四日間ともスキーをすることを選んだ。

 ニュージーランドにはほかにも「ミルフォードサウンド」や「マウントクック」
などの観光地がたくさんあり、ほかの体験型の遊びもたくさんあった。
 だが、全て無視した。
 ただひたすらスキーをすることを選んだ。

 それを今、思うともったいないと思うと同時に、人間には視界や目線があり、
「見たいものしか目にできないものなんだなー」とつくづく感じる。

 一番初めのニュージーランドは観光がセットになっていたので、今思うと
あちこち観光地を回ることができた。もともとセットになってないと出かけて
ないと、今でも思うね。

 ボクたち人間というのは見たいものだけ見てる現実があると思う。
 「せっかくニュージーランドにまで行くんだ。あちこち観光地を巡って
ほかの体験型の遊びもやってみよう」、ほんの少しだけ視野が広ければ
もっとたくさんのことができたはずなのにね。

 そこからきてボクは今、「自分の頭で考えることはたいしたことない」と
思うようになった。であれば、どうするか。「頭にないことでもとりあえず
やってみること」だろうね。

 分かりやすく言うと「こんなのやってもどうせつまらない」と思えることでも、
とりあえずやってみる。評価は後々に任せようということだ。

 「おもしろいからやってみよう」ではなく「とりあえずやってみよう」を
強くお薦めするね。ボクたちの頭は知らないことをおもしろいとは思わない
ようにできてるみたいだから。

2011年9月 2日

ムダ

 ボクはムダをしているのかもしれない。
 1対1の待ち合わせの場合、ボクが遅かったことは記憶にある限り、
一度もない。多分、時間の組み立てからして違っているのではないかと思う。
 イナカの人間は基本的にこんな感じだね。

 近くにあるバス停。一回逃すと次は30分待たなければならない。だから
一つ遅れると間違いなく遅刻してしまう。早くからバス停で待っているのは
そんな理由もある。早め早めの行動につながりやすいわけだ。

 海外旅行に行くときも同じこと。飛行機出発の2時間前にチェックイン
せねばならないが、ボクはいつもチェックインの2時間前には到着してしまう。
 よってたっぷり4時間ほど待つことになる。

 これらの話だけ聞くと大きなムダをしているようだが、利点もある。
 1対1の待ち合わせの場合、早く到着するから相手を待つ形になるし、
それは精神的ゆとりにつながる。

 後から行くとレストランの場合、先着した人がテーブルを決めて、着席
しているものだ。出遅れた感じが強くなってしまう。
 相手を待ち受ける形というのは、なんとなくこっちが先方より下に位置
している感じになるのもいいと思う。
 相手を尊重しているように見える。

 人はいつも同じ環境で時間を過ごしているものだ。自分が作り出していると
言える。待ち合わせの場合、いつも遅刻する人は「なんで気後れするのか
分からないが、気後れする」みたいなことが発生していると思う。
 まず環境を替えてみることだ。

 ボクは注文したものの支払いのときにも「先方に行って払ってこい」と
言われ、ひどく立腹したことがある。「だってこっちが注文したのに」なんて
思った。だけどね、実際にやってみると値引きしてくれたり、相手の会社の
実情が見えたり、お得な情報を提供してくれたりするものだ。

 ボクたちは頭の中で「これはこういうものだ」と組み立てをするものだが、
遅刻する人はいつも遅刻するのと同じで、それがその人を追い詰めてる
ところもあると思う。たまには違ったことを実践してみると、この世は
また違った顔を見せるんじゃないかな。

2011年9月 1日

トラック

 ボクは大型車(トラック)の免許を持っている。会社で将来、必要になるかも
しれないと考え、取得した。何度か、マイクロバスをレンタルして仕事に供した
ことがある。たまにだけど役立ちはした。
 そもそも、トラックの免許は100%、仕事でのみ使われるものだ。

 ボクの場合、将来的にマイクロバスに乗ることもあるだろうと考えたのが
きっかけ。免許試験場にて「マイクロバス限定免許」を受験しようとしたが、
試験場の人から「マイクロバスはマイクロバスしか運転できんのんよ、トラック
の免許をとった(取得)方がいい」と言われ、自動車学校に入校した。

 そこで、取得することになったのだが、先ほども書いたようにトラックの
免許なんて100%、仕事用なわけだ。よってボクは「この免許は仕事用
だから、経費で落としてくれ」と注文をつけた。
 トラックの免許と言えど、24万円くらいかかった。

 そのとき、こんな話になった。
 「それはオマエについてまわるんやろ。オマエがこの会社をやめても、
オマエの資格として持ち運びできるんや。だったらオマエが出せよ」。
 結局、自分で支払った。

 ただ、昨日、ある男性と話していて、この事実を思い出したのだが、
これは示唆に富んでいるかもしれないと感じた。

 ボクたちは仕事に取り組むとき、「これは会社で必要なものだから」とか
「会社の業務の一環だから」みたいな考えがないだろうか。ボクの場合と同じだ。

 だが、改めて考えてみると、仕事の一環であっても、身につけた資格や
知識はあなたが持ち運びできる性質のものだ。「あんたは退職するんだから、
この会社で身につけた資格は置いていけ」なんてできるはずもない。
 会社の業務によってあなたの値段は確実に上がっているわけだ。

 昨日も男性にお話しさせていただいたのだが、「今の会社に残っても、
退職しても、あなた自身に値打ちがあれば問題ない。退職が決まっても
引き留められるくらいの値打ちを身につけておくべきだよね」と。
 「会社の業務という認識ではなく、持ち運びできる資格がまた一つ増えた」、
そんな考えがあってもいいと思う。