2011年3月31日

なんでもあり

 東北地方が今、平時か戦時かと問われれば、ボクは戦時だと思う。
 そして、今は戦時のような考え方で取り組むのが当然だろう。

 一昨日の新聞を読んでボクは自分の目を疑った。そこには「運転免許証が
津波で流され紛失、ただ運転しないわけにもいかないので不携帯で運転してる。
会社の社長がさすがにそれはまずいだろうと口にした」なんてあったからだ。

 ちょっと。お願いしますよ。今、東北地方でそんななまっちょろいことで
やっていけるんですか。今はなんでもあり、なんだってあり、でしょう。

 日本人は戦争で負けたことを、まさか知らないことはないだろう。
 それによって国民がどれだけの目にあったかも。日本では戦争中に発行
された「戦時国債」は元金も利息も全く払い戻されていない。紙くずになった。
 国が倒れたんだから当然だろう、とはボクも思いますけどね。

 それからアジア各国において日本軍が発行していた軍票なるものがあった。
 軍票はお金のごとく流通していたが、これを所有していたアジアの人たち
もそれらは全くの紙くずになった。日本軍が敗走したからだ。
 日本は太平洋戦争後の処理を大変なめにあいながらこなしてきたんです。

 ボクの母親の父親は無理やり、戦争に動員されました。ハガキ一枚です。
 しばらくして「南方の方で、船が沈んだのかもしれない」で片付けられて
しまいました。いまだにはっきりしてないんです。

 戦後は「片親(そのとき使われていた言葉、あえて使います)だったので
銀行に入れるところを、書類選考で落とされ」ました。片親って、祖父は
無理やり戦争に行かされたんですよ。結果、「南方製パン」なる会社に入る。

 母親は入ってすぐ「社長さん、この会社、つぶれますよ」と教えてあげた。
 社長は「毎日、オマンマ、食ってんのにつぶれるはずがない」と主張。
 きっかり三カ月後に倒産したそうです。ボクはその話を聞いて「なんて、
理不尽な」と何度も声に出してしまいました。母親は至って冷静でしたね。

 「あのころの日本はみんなそうだったから」。
 日本人はそんな戦後を耐え抜いて、生き抜いてきたんです。今だったら
理不尽の雨嵐の中を。だから、東北の人たちには言いたい。今はなんでも
あり、なんだってあり、でしょう。

2011年3月30日

電気

 今、大震災により計画停電が行われている。それによって首都東京も
かなり混乱してるようだ。
 考えてみれば、ボクの生活はかなりな節電になってるかも。ここ何年か、
夏の夜、クーラーを使ってない。電気代の節約ではなく、身体にクーラー
の風が当たることで体調を崩すから。夏場はだれしも体調を崩しがちだが、
クーラーの使用でますますおかしくなる。

 クーラーを使わないわけでそれなりに工夫が必要だ。まずふとんを使用しない。
 敷きふとんもかけふとんも使わない。枕のみ。腹にサラシのようなものを
巻いて、その格好で寝る。これくらいしないと夏の暑さはしのげない。
 そして、畳の上に直接、寝る。ただ、慣れないうちは身体がかゆい。慣れると
かゆさはなくなり、ひんやりとしてとても気持ちが良い。

 ただ、ここまでやれば就寝できるので電気代も節約できるし、体調にも
プラスになる。やってみて損はないと思うよ。
 もともと、ボクは二階で就寝していた。そして夏場は当たり前のように
クーラーを使っていた。ただ、このクーラー、温度調節とか時間になったら
勝手に切れる、などのタイマー類、一切なし。よって明け方の4時ごろ、
寒くてスイッチを切っていた。そんなことを毎年やっていたが、身体に
悪いといまさらながら感じるね。
 夜中、クーラーを使わないのでかなりの節電になってるはずだ。

 さて。
 東京近辺では節電が叫ばれているそうだが。とても違和感を感じてる。
 というのは、イギリスやヨーロッパでは「もともと電気と水は公共財」
の感覚が強いからだ。「お金があるから、お金を出してそれを買う」という
感覚は否定されている。「自分が使わなければ、だれかが使える」感覚が強い。

 この辺りが日本人が軽く見られる原因になってる。
 だから、野放図に電力需要が高まるわけさ。
 電気も水も「自分が使わなければだれかが使える」財産なわけで、
できるだけ使わないようにして「お戻し」するのがヨーロッパの基本的考えだ。
 その、ちょうど、電気と水を今回、直撃されたわけで、この当たり前な
感覚を呼び戻すきっかけにはなったと思う。

 「電気と水」はね、お金があるからそれを出して買う、ものじゃないんだよ。
 「みんなの財産」なんだ。それをひとまず理解しようよ。
 それからなにが電気を多く使ってるのか内訳をよく観察しないといけない。
 実は照明用の蛍光灯はあまり使ってない。やはりクーラーなどが多く使ってる。
 節電のためにはクーラーの使用をいかに控えられるかにかかってる。

2011年3月28日

鑑定

 先日、文庫本で「筆跡鑑定」なる本があったのでさっそく買ってみた。
 昨日、やってみることにした。むちゃくちゃおもしろい。

 鑑定というより占いに近いかな。「怖いほどよく当たる」なんて書いてある。
 筆跡では興味深い話を読んだことがある。凶悪事件などを起こす犯人は
とてもいびつな字を書くそうだ。書いた字を見るとその人を想像することも
可能なわけだ。

 筆跡占いをやってみた感想は。
 字には自分の心のありようが大きく表現されることがよく分かる。
 とても大らかな人、曲がったことが大嫌いな人、などはとてもよく分かる。
 やはり字に出るみたいだ。
 内容は本書にゆずるとして。

 逆に「なりたい自分」を空想し、それに近い態度を取り続けると、そちらに
移動できることも表していると思う。これってすごいことだよね。 

 たまに、もともとはさして良い男ってわけでもない人がいて、だけど
なんていうか、身にまとったオーラみたいなものがキラキラまぶしい人がいる。
 良い顔じゃないんだけど、とても魅力がある。

 たぶん、出発点はほかの普通の人たちと変わらなかったのだろうが、
体験したことや考え方により、そんなものが乗っかったに違いない。
 ボクたちは産まれたまま、そのまま大きくなるわけじゃないんだな。

 なにに出会って、どんな体験をするか、節目節目のきっかけを活かすか
どうか、によって変わってくるに違いない。であるならば、理想を念頭
に置く人間の方がよほど達成は早いに違いない。

 同書にもあったが「なりたい自分を空想して、そんな字を書くと」
そのような自分になれるわけだ。筆跡を変更するだけで今とは別の場所に
いける。そのほか、態度、表情も「なりたい自分」にしてみればいい。

 ボクたちは決して産まれたそのまま大きくなってるわけじゃないんだ。
 産まれたときってみんな個性のない、愛くるしい顔をしてる。そんな
人がいろんなことと出会って表情を替えていく。これってすごい可能性を
秘めてると思うんだけど。どうだろう。

2011年3月25日

類推

 先日、CDを買い求めに行った。探していたものは見つからなかった。
 ボクたちにはもっともっと類推する力が求められるはずだ。

 ある映画を見たんだ。多分、イギリス映画。
 その中で流れてる曲が良かったので買いに出向いたわけ。

 店員さんに「これこれっていう映画なんだけど、サウンドトラックは
出てますか」、の問いに「残念ながら発売されてないみたいですね」で終わり
だった。

 でも、どうしても欲しいボクはそれからあれこれ考えた。
 で、分かったことがある。なんのことはない、映画はレンタルで借りて
きたんだから、パッケージを見ればどの曲が採用されたか判明するはずだ。
 ってことに気がついた。

 ってことを店員さんがやってくれれば、ボクの手間は省けたはずだし、
商売チャンスだって訪れたわけだ。

 店員さんがここで考えなければならなかったことは。
 「この人はサウンドトラックが欲しいのか、その映画で流されていた
音楽が欲しいのか」類推することだった。それが分かれば決着した話だ。

 ボクたちはさ、他人の話を聞くとき「この人の真意はどこにあるのか」
「どうして欲しいのか」「なにを意味してるのか」考えないといけないわけだ。

 よく話をしていると「そんなものはありません」、即答する人がいる。
 ただ、それの変わりをするものはないのか、本当はなにを求めているのか、
どうしたいと思っているのか、類推することはできるはずだ。そして日ごろ
から類推する訓練をしないといけない。
 それがサービスってことでしょ。
 「単純に割り切って考えてばかりいてはいけない」ってことさ。

2011年3月24日

仕事

 先日、ある方とお知り合いになり、いろいろと仕事を頼んだ。
 その方と話していて違和感を感じた。
 「あの人も知ってますし、この人も知ってますよ」だったから。だったら、
なぜ、ボクはあなたを知らなかったのか、と。

 紹介してもらっても良かったじゃないか。
 みんな、仕事ってどういうふうにとらえているだろう。
 ボクは仕事はチーム、チーム力だと考えているんだ。

 自分が仕事を引き受けたら、「あー、わたしの知り合いにこんな分野に
強い人がいるんですよ、今度紹介しますから、ぜひよろしくお願いします」が
あっていいじゃないか。
 「使えるか使えないかはそちらの判断にお任せします」でさ。
 「わたしに言ってもらえればいいですから」。

 よく犯人が逮捕されると「芋づる式につかまった」などと聞く。
 どうしてみんなは芋づる式に紹介して仕事の幅を広げていかないのかな。
 みんながチーム力を発揮すれば、もっともっと仕事の幅は広がっていく
はずじゃないか。
 それに頼んだ人も「良い人を紹介してほしい」と思ってるものだしね。

 よく母親がこんな話をしてくれる。
 「人は一人で生きてるんじゃない。支え合って暮らしているんだから」。
 仕事も単独でやってるわけじゃないと思うんだよね。
 みんなでカバーしてやっていかないと。

 「こいつは信用できますから」も周囲にいる人が口にするから信じられる
話でさ、自分で「わたくしは信用できる人間です」って言っても笑われる
だけだろ。

 ボクたちはみんなセールスマンなんだ。で、一人だけ上にあがれる
わけでもないんだ。みんなで、チームであがっていかなくちゃいけない。
 「この分野はあいつ、強いんです、今度紹介しますからぜひよろしく
お願いします」でいくべきだ。

2011年3月23日

腕組み

 あなたは知らず知らず腕を組んでいたりしないだろうか。
 ボクもよくやってたな。腕組み。今、思い返してみるに、あれって
無意識にやってるのと、手持ちぶたさも大きく関係してる。やることないから、
なんだね。よく言われる貧乏ゆすりにしてもそうかもね。

 これら知らないうちにやってるしぐさ、たまには点検して直すことが
あっていい。人間、聞かされると直ることもあるが、自分ではなかなか
気づかないこともある。

 あなたはだれかに指摘したことはあるかな。
 指摘しようとするとかなり心理的負担がかかるでしょ。その心理的負担
を考えれば、だれかがあなたに指摘してくれる回数はとても少ない、と
考えることが当然だよね。

 腕組みをしている人の表情を考えてみよう。
 きっとそのとき、その人はとても難しい顔をしてるはずだ。にらんでると
言っていいかもしれない。腕組みの上に乗っかる表情は類推できるというわけだ。
 表情はこわばって、腕組みをしてる人を見ると、ほぼどんな人でも
話しかけようとはしなくなる。

 よって腕組みをする人は他人を無意識にも拒絶してるといっていい。
 「あなた、それは他人を拒絶してるのと同じですよ」と聞かされれば
かなり戸惑った表情になるだろう。そして、それらの人たちは他人から指摘
される回数も極端に少なかったに違いない。

 ボクたちは基本的に他人に対して「ガード」を下げる必要があると思う。
 「池田さん、何なんですか、それは、何度も言ってるでしょ」、なんとなく
そのように言葉をかけたくなる人がいる。結局、これらの人は聞かされる
から直っていく。

 そのためには日ごろから「何でも言って、聞くから」、そんな姿勢が重要になる。
 腕組みは本当に損をしてると思う。その損が自身には分かってないから困る。
 たまにはお互いに「あんた、そこ、おかしいよ」と言い合える時間があっていい。

2011年3月16日

指摘

 昨日、歩いていると市の職員と出会った。自転車にそのように書いて
あったからね。しばらく一緒に歩いていたが、ある車のところで男性に
注意した。「ここは入り口ですから、とめないでくださいね」。

 ボクはどんな展開になるのかと注視していた。
 言われた年配の男性、「了解」と一言。車を動かし移動させた。
 ボクだったら、きっと取ることのできない態度だったと感じた。

 ボクはこういう展開になるとムッとして表情を曇らせる。無言で移動
させてるのが、多分結論だろうと思う。それからしばらくして「あーあ、
あんなムッとしたりして。もっと素直になれれば良かったな」とか反省
したりする。だが、次回、また同じようなことがあると、またやらかして
しまったりする。意外に根っこが深い。

 きっと素直な人というのはこの男性のような人のことを言うのだろう。
 これらの問題を考えるとき、必ず一緒に聞かされるのが「あなた自身を
否定してるわけじゃないんですよ」ってこと。

 確かにそうなのだが、注意を受けた側はなかなか素直に受け止めることが
できない。案外「オレばかりじゃないだろ、ほかにも悪いやつはたくさん
いるぜ」とか「まず、もっと悪いやつから注意しろよ」、ついそんな発言
をおこなってしまいがちだ。
 人間を否定しているわけではなく、行動を否定しているのだが。

 きっと素直じゃない人間はそこを一緒にとらえがちというわけだ。
 この点についてボクは自分で注意してることがある。

 上記のようにボクは素直な人間じゃないが、あるときだけやけに素直
になれる。どんなときか分かるだろうか。

 「なにか悪いところはありますか」「オレっておかしなところ、ありますか」。
 自分で欠点を質問したときだけ、それを聞かされても腹が立たない。
 よってこれまでボクは人に出会うとよくそんな質問をしていた。
 指摘されることが嫌いな人はこういう方法もいいと思うよ。

2011年3月11日

自動ドア

 今朝、車を走らせて大きな道に出ようとすると、黒い車が立ち止まって
出させてくれた。完全に止まったわけではなく、ソロソロと動く。
 ただそれにしても「お先にどうぞ」の意味だろう。なにか朝っぱらから
気分が良い。ギスギスしてくると「こっちが優先だから」みたいな運転が
まかり通る。

 ボクも気分がムシャクシャするときはこういうときわざとアクセルを
踏み込んだりすることがある。内心「オレって器量が狭いなー」とは思うが。

 そしていつものようにコンビニに向かう。
 花粉症がひどく、鼻がぐしゃぐしゃな感じ。やはり今年はひどい。
 コンビニは自動ドアのところとそうじゃないところがある。
 自動ドアって何だか便利。

 だが、最近、受け止め方が違ってきた。自動ドアではなく、押すタイプの
ドアがなんだかお気に入りだ。サラッとだが、ドアを押さえてくれてる人がいる。
 ホテルマンのようにおおげさではなく、「戻るのを少しだけ遅らせる」、
そんなことをしてくれる人がいる。

 人が二人、同時にドアに駆け寄ったとき、みたいな感じかな。
 自分は出ようとして、外からだれかが入ってきたときも、ほんの一瞬だが
手を下向きから上向きに替えて遅らせてくれる人がいる。
 「このドアってすばらしいなー」とつくづく思う瞬間だ。
 これが自動ドアだと決して実現しないしぐさだもの。

 コンビニとかそういう店って実は匿名性がとてもうれしいものだ。
 「あら、池田さん、今からご出勤、大変ですねー、では行ってらっしゃい」
とかあると、実にめんどうだ。だが、匿名だからこそ、無作法がまかり通る
のがこれらの店でもある。

 「なら、オマエもドアをきちんとおさえるよう行動しろよ」なんて
思われるだろう。ちょっとだけこそばゆい瞬間でもある。でも逆に考えると
こそばゆいからこそ、だれでもがやってるわけじゃないんだろう。

2011年3月10日

仕事

 ボクたちは仕事というものに対して自分の目線でばかり見ていないだろうか。
 ま、当たり前だよね。自分が仕事して、それを観察するのは自分なわけで。
 ところが。どうだろう。

 先日、知り合いの保険をお仕事とされている男性と呑む機会があった。
 いや、男性は呑まなかったのだが。

 ボクが「ささ、ビールを」と近づけると片手を顔の前に突き出し、
きっぱり、といった表情で「わたしはこの仕事に就いてから一度もアルコール
は口にしてません」。聞かされて驚いた。うわーーーっ。
 「いつなんどき呼び出されてもいいように、24時間出動可能です」。

 ボクは自慢じゃないが1年365日、お酒を口にしてる。量は決して
多くはないのだが、毎晩口にしてるのは確かなことだ。そのボクにとって
「この仕事に就くからにはアルコールは厳禁」なんてことになると、
その職に就くことから真剣に考えなければならない。

 こんな節制を強いられる(人によって違うかも)お仕事もあるわけだ。
 ボクもずっと前は「オレの仕事っていうのは」みたいな目線でとらえていた。
 自分が観察するわけでそこから「めんどう」「大変」、そんな語句が
当たり前に脳裏をよぎっていた。

 だが、もっとひどい職から移ってきた人たちは違った感想を持つかもしれない。
 ボクは内心「自由に酒が呑めるだけでも今の仕事はいいな」なんて思った。
 実は、こうした節制を求められる仕事って世の中にたくさんあるのだろう。

 そんな節制も仕事と割り切って取り組む。ボクの考えの方がよほど甘かった
のかもしれない。
 また、保険の仕事をされている方と約束するとはなはだめんどうだ。
 「急な呼び出しがあったらキャンセルさせてください」なんて聞かされる。
 それではこっちも困るのだが。

 自分の仕事っていつも自分だけが観察してる。その観察は果たして正しいのか、
合っているのか。たまには考えていいかもしれない。いろんな仕事の実情を
知ることにより、自分の仕事観がまた違ってくるかもしれない。
 「ありがたいなー」なんて思えるなら、それはそれでうれしいよね。

2011年3月 8日

激変

 ひょっとすると価値の激変が起こるかもしれない。
 少し前、デノミあるかもしれないと騒がれたことがある。デノミとは
通貨単位の切り替え、と言われている。実際にはいまだに起こっていない。
 今の1000円が1円と改められれば大変な混乱になる。それだけは
避けたいところだ。

 みんなが危機に対して用心すれば恐れていたことは起きない。よって
デノミも騒がれただけで終わったのかもしれない。
 今、日本は大変なデフレ状況にある。長い間、お金の持つ意味が高まり
続けたことになる。だが、このデフレにしろいつまで続くか分からない。
 逆にインフレになる可能性もある。

 デノミも同じことだが、人々がみんな「起こるぞ、起こるぞ」と用心して
対処すると現実にはそれが起こらなくなる可能性が高い。

 よって、ボクは「それが現実に起こるかどうか」より、それに備えて今、
日々の在り方を問い直す方が適切だと考えている。

 価値の激変とは、要するに「1億円あれば老後は安心」とか「これだけの
お金があれば安心して暮らせる」、そんな指標が音を立てて崩れることだと思う。
 よって「ゆとりができたらする」「将来に向けてお金をため、たまったら
やりたいことをする」が果たして正解かどうか改めて考え直してみた方が
いいのではないかと。

 ボクはこの激変についてたまに考えることがあり。結果として「頭の中に
あるものと、経験は劣化しない」を基準に考えることにしてる。
 頭の中にあるものとは。英語が話せるようになるとか、経験は旅行と置き換えて
もいいだろう。「ゆとりができたら旅行でもするか」ではなく「できるうちに
どしどしやろう」に転換する。

 日本で戦後、だれも海外旅行など想像もできなかった時代がある。そんな
時代に戻るかどうかは知らないが、そうなってもいいよう備えておくことも
大事だと思う。価値の激変は起こるかどうかは分からない。その流れも
急ではなくゆっくりかもしれないし。

 ただ価値の激変が起こってもいいよう、「今をどのように生きるか」、たま
には考えてみてもいいのではないだろうか。
 危機をあおるようなことはしたくない。あくまで「将来、激変したとして
今をどのように生きるか」を考えることはムダじゃないと思う。

2011年3月 7日

排除

 あなたの周り、できるだけ排除しないようにしましょう。
 高校に勤めていたころの話だ。どのクラスにも困ったやつが必ずいた。
 うるさくして授業の妨害をしたり、混乱させて楽しむグループもいた。

 そんなやつらには「おまえら、ええかげんにせー」なんて言葉を再三
発したりした。仕方がないのでそいつらのすぐ近くで授業したこともある。
 不思議なことだが、これら困らせるやつ、どのクラスにも必ず存在する。

 内心、「あいつらがいなければもっとまともな授業ができるのに」なんて
感じていた。だが、実際にそいつらが退学してみると、まともなクラスに
変身したのか。しなかった。

 それまで困り者におさえこまれてたやつらが大騒ぎするようになった。 
 二番手が待機しているのが実情だった。それからというもの、「あいつが
いなければもっとマシな授業が」ではなく「あいつらをどのように制御すべきか」
考えるようになった。一番悪いやつらがいるおかげで噴火しないやつらも
いるわけで。

 こんな事例はそれこそ嫌というほど出会った。排除すればいいものでは
ないのだとよくよく分かるようになった。

 さて。
 あなたの周りにも困ったちゃんは存在するだろう。約束はあまり守らない。
 だらしないやつ、とか。上記については補足がある。困ったちゃんを
きちんと制御できるようになると、同じ困ったちゃんと出会ってもうまく
対処できるようになる。これは驚きの事実だった。

 要するに事実があれば対処がある。ボクたちはもっともっと対処を学習
せねばならない。排除するのではなく、うまく対応することが大切なんだ。

 これら困ったちゃんはよそからも排除されてる場合が多い。うまく対応
できれば困ったちゃんもあなたを応援してくれるに違いない。
 排除するとそれらの人と同じ人たちを無意識に排除してしまうことにも
つながるしね。

2011年3月 3日

驚き

 ゆうべのことだ。酒をいただいているとこんな話が飛び出した。
 「あの人はすごいですね、前の日の会合で出会って、翌日会社に
行ったらハガキが届いてたんですよ。びっくりしたのなんのって」。
 早さはものすごく大事だってことだ。

 ボクたちは日々、いろんな人たちと出会う。
 名刺を交換し、そのままほったらかしもよくある。だが、そのすれ違い
をなんとか有効に活かしたいと考えるのも当然のことだ。

 ボクはいつも名刺交換するとき「新幹線がすれ違う場面」を想像してしまう。
 どちらもすごい早さで走っているから、なんとかつなぎ止めようとしなければ
ならない。ものの一カ月もほったらかしにしておくと、再度のきっかけは
なかなかつかみにくい。

 そこでお礼状だの、電話などの利器が登場してくる。
 そのとき、早ければ早いほど効果は上がると思う。
 ゆうべ、この話を聞かせてくれた彼からは、「ものすごく早かったときの」
ことだけ話してくれた。
 印象が強烈だったわけだ。

 「どうせやるならもっともっと早く」はいろんな場面で大事になってくる。
 ゆっくりした反応をしてしまうと、やっていることは同じであるのに
効果が半減してしまう。

 人は驚くと強烈に記憶に残る。
 それが次回に強くつながるかもしれない。

 「なにかをやろう」と思ったとき、「どうせやるなら一秒でも早く」取り
掛かることだ。ハガキ代は50円だが、費用も手間も同じなのに効果は
全く違う。上記の話はそれを物語ってる。

2011年3月 2日

拒絶

 拒絶ってすばらしいと思いませんか。ボクはすばらしいと思う。
 この世は右を向いても左を見てもみんな拒絶、拒絶、拒絶でしょ。
 拒絶されるからこそ、「あ、オレ、参加するよ」って人も見つかるわけで。

 ボクは20代のころから酒席の会を用意してはおこなっていた。
 酒席ではボクはいつも生き生きしてて、そんな自分を客観的に眺めて
「あれっ、オレ、ひょっとして喜んでるの」なんて意外に感じてた。

 さて。
 この酒席。誘えばみんなが来るわけじゃない。当たり前だ。
 みんな時間の制約もあるしお金の問題もある。ボク自身についてもそうだ。
 だから酒席の誘いなんて「拒絶が当たり前」とでも思わなければとても
やってられない。

 「あーまた行かれないって言われちゃった。オレって人気ないのかな」
なんて思ってちゃ誘うことなんかできやしない。

 ただ、ボクもこれまで「池田さん、拒絶がそんなに怖いのか、なんで
怖がる、怖がってちゃなにもできやしないだろう」なんて聞かされたことも
一度や二度じゃない。いや、怖いのは確かだ。

 拒絶されるって具体的にこちらの存在を全否定されたのと同じでしょ。
 「あなたはいないも同然」の扱いを受けてるわけだ。
 と思いませんか。

 ただ、拒絶をあまりにも怖がるとなにもできなくなる。
 ボクは拒絶されることを怖いと認めるようにしてる。
 全て拒絶でできあがっているからこそ、怖いけどやる、しかない。

 常に応えは二つに一つ。
 よく言われた。「池田君、拒絶されたからってな、君が否定されたわけ
じゃないんだよ。ある一面をさして拒絶の形を取るだけだからね」。

 ボクもなかなかこの考えを受け入れることはできなかった。子供のころから
集団の中で暮らしてきた人はボクとは受け止め方が違うのかもしれない。
 この世は一歩、前に出るたびに拒絶に遭遇する。「それが当たり前」と
思えばもっと気楽にやれるかもね。