2010年5月31日

苦痛

 ボクは毎月30冊ばかりの本を買い、少なくとも20冊は読み切ってる。
 実はこれ、自分でも分からなかったんだ。あるとき人から聞かれたから。
 改めて考えてみて、分かったことだ。

 それを口にすると多くの方々が「それはすごいですね」「本代も
すごくかかってるでしょう」「すごい読書量ですね」「知識も豊富に
なるでしょう」など聞かされる。いやー、どれも当たってないんですけど。

 毎月30冊買って毎月20冊は読み終える、のは無意識にやってただけで。
 改めて思い出してみるとそうだっただけで。ノルマでもなんでもなく、
ただ好きでやってるだけ。だから速読などにも全く興味なし。

 「なんでこんなおもしろいものを素早く読む必要があるのか」と本当に
思ってる。本に対する意識そのものが丸っきり違ってるんだ。
 あなたもきっとテレビを長い時間見るでしょう。だけどそれにて「あなたは
すごいですね」とは言いませんよね。それに近い。

 ボクにそのようなことを言われる人は読書が苦痛なんだろう。
 それで「苦痛なことができるあなたはすばらしい」と考えているに違いない。
 あのね。苦痛に対する考え方が根本的に違うのよ。
 読書が苦痛。苦痛に思う人間はできませんよ、こんなこと。

 ボクは休日には朝から晩までぶっ続けで本を読むことも多い。それを
苦痛に感じていたらできるわけないじゃないですか。好きで好きでたまらない
からやれるんですよ。

 要するにあなたは、あなたの考える世界をボクに押し付けているんですよ。
 「読書は苦痛だ、読書は苦痛だ。だからオマエはすごい」。すごくないですよ。
 自分が感じてることを他人に押し付けてる。だけど本当は「その人が
感じてることを感じてあげる」ことが大事なんじゃないかな。

 苦痛はほかのことにも言える。苦痛に感じてる間はなにも成就しませんよ。
 「一日中、ぶっ続けでやってるけど全く苦にならない」くらいでないと
物事はうまくいきません。仕事もそう。なんでもそう。苦痛とは「いやいや
やる」でしょう。「いやだけど仕事だから我慢してやる」じゃーうまく
やれる仕事なんてありませんよ。

2010年5月28日

ショック

 「池田さん、ショックじゃないんですか」。
 火曜日の晩、ある方と話していてそんなことを言われる自分。
 「そりゃショックですよ、当然じゃないですか」。

 男性は会社の女性二人に声をかけ勉強会に誘ったと言う。だが、男性
から言わせると「けんもほろろ」に断られてしまったそうだ。

 男性 「こっちは良かれと思って誘ってあげたのに、くっそー、腹
たつなー。もう二度と誘わないぞ。だけど池田さんは断られても断られても
電話しますよね。ショックじゃないんですか」。

 ボク 「ショックに決まってるじゃないですか。嫌に決まってますよ。
断られるって人間にとっては最悪ですよ。ホントに」。
 男性 「だけど、また誘うんですよね。オレはもう誘わないけど」。
 ボク 「ですね。本当は自分を受け入れてくれる人だけ相手にしたいん
ですよ。電話すれば「はい、お待ちしてました」っていう人だけね。
だけどそれで今、どうなってますか。なんにもなってないでしょう。だから、
仕方なく電話してるんですよ。嫌だけどやってます」。

 男性 「そうは見えないんですよね。喜々としてやってるように見える」。
 ボク 「それであなたはもう誘わないんですか」
 男性 「もう絶対、誘いません。あんなことわられ方をされて。彼女
たちにプラスになると思うから声をかけてあげたのに。こっちの気持ちも
知らないで」。

 ボク 「そうですか。ボクもよくそんなことを考えましたよ。絶対に
誘うものかって。だけど、どうだろう。どうやらボクが断られても
電話できるのはダムを建設しようという目的があるからかもしれませんね」

 ボク 「ダムなんか必要ない、オマエになんか協力するか、って人も
大勢いると思うけど、その目的があるからやれてる気もします。結局、
どこを見てるかっていう話ですかね」。

 ボク 「ボクも一つ一つはとても悲しいんですよ。断られたりすると
とても悲しい。悔しい。だけど、その人にも考えがあるとするならそれを
認めてあげないといけない。断る自由もあるということです。それを
はっきりさせるためには、やはり断られる必要がある。それを避けては
通れないのが、今のボクなんです」。

2010年5月26日

アメリカ

 今、基地問題で揺れている。そこで基地のお話、というわけじゃないが。
 2年くらい前のことになる。アメリカ軍の小学校にソロバンを教えに
行ったことがある。ソロバンと言ったってアメリカ人にしてみれば「異文化
に接触」くらいの意味しか持たないだろう。

 「英語で教えたんですか」と聞かれるが、まー、一応ね。英語。
 確か「ワンアップ」とか「ダウン」とかそんな簡単な単語を並べただけ
だったな。おかしな光景だったのは担任教師は教室の前にある自分のデスク
でパソコンを操作していたこと。

 どうやらここで一元管理されてるらしく「うちのクラスは次の時間は
どこに行けばいいのか」確認してるらしかった。職員室というのも
あるにはあるが、これなら必要ないよね。職員室をのぞくとコーヒー片手に
雑談って感じだった。アメリカでは日本よりもっともっとパソコンが活かされ
てる感じだ。

 なんと。アメリカ軍の小学校では本土(アメリカ)から船で給食が輸送
されるのだという。「子供たちはみんな日本の学校の給食がおいしい、
おいしいって言ってます」と聞かされたが当たり前だろう。

 アメリカ人の生徒たちは希望すれば日本の小学校に一時的に所属する
ことができる。アメリカの小学校の夏休みは長いからね。夏休みになって
から日本の小学校に通う子供もいる。それらの子供たちは日本の学校の
給食がおいしいことを知ってるというわけ。

 それでかどうか知らないが。ここからが本題だ。
 ボクもお昼をごちそうになったがなかなか良かった。物置のような部屋
に案内されたがそこにはたくさんの食事が並んでいた。輸送してきたわけじゃない。

 「職員は一つの料理だけ朝、ここに持参します。お昼は持ち寄った料理
をみんなでいただきます」システムだった。うまいこと考えたな。

 サラダならサラダだけ10人分くらい作って持参。おやつならおやつだけだ。
 一品だけ作って持参するってとても便利だ。持ち寄るからいろんなものが
食べられる。生野菜が多かったけどね。ブロッコリーとか「ボコボコ」
いわせて食べた。っていううまいシステムになってる。
 異文化に接したのはボクの方だったのかもしれない。

2010年5月25日

疲れた

 あれは仕事を始めてから3年くらい経ったころだろうか。
 「オマエなー、疲れた疲れた、くたびれた、なんて口にするな」と
ものすごく怒られたことがある。言われてびっくりした。
 「いやいや、オレ、そんなこと言ってませんから」。と思ったが、いや
口にしてた。気づかなかっただけなんだ。

 そこで点検してみると自分でも驚くべきことがあった。
 「あーしんど(疲れたと同意)」とか「めんどくさいけど片付けてしまおう」
みたいな言葉を発している自分を見つけた。意外に多く使っていたな。
 自分じゃ意識してなかったけど。
 そのとき誓った。「もう二度とこれらの言葉は使わないぞ」。

 言葉というものはすさまじく恐ろしいものだと思う。それを使っていると
そのように感じられるんだ。「つかれたー」と口にすると身体も現実に
疲れてくる。「めんどくさい」を多用するとやってる仕事がつまらない、
どうでもいいことのように思えてくるんだ。
 なにか自分で自分をくさしてるようなものなんだ。

 そのころボクはよく他人に対しても「疲れましたか」とか「あまり
頑張らなくてもいいですよ」などの言葉を無意識に発していた。
 これも自分では分からなかったな。
 人はまず言葉ありきだ。だから注意しなくちゃいけない。

 ボクはあのころよく点検していた。なにかおかしな発言してないかなって。
 これを言うときっと「疲れたものは疲れたんだから仕方ないだろう」と
思われるかもしれない。そうじゃないと思う。

 人は自分がやりたくてやりたくて仕方ないことであればいくら疲れる
ことでも張り切ってやるものだ。お金も出ないのに張り切ってやる。
 その好きなことをやるときに「疲れるけど頑張ってやりましょう」とは
言わないはずだ。「めんどくさいけど仕上げてしまいましょう」とか。

 たまには自分の発言を点検する必要がある。そしてつまんない言葉を
使っていたら、即刻やめるべきだ。良いことは一つもないから。
 自分がやってることがどうでもよくなってきたら、その仕事の根源的な
意味に立ち戻ることも必要だ。「これでたくさんの人が助かる」とかね。

2010年5月24日

歴史

 「実は日本はアメリカと戦争した」ことを知らない若者が現実に存在
するのだと言う。おいおい、おかしいだろ、それ。
 ま、あまり大きなことは言えないな。
 うちの親は「日本軍がイギリスやオーストラリア軍と闘ったことを」
知らなかったし。あなたは知ってましたか。

 日本軍とアジアの解放は切っても切れない話だった。アジアの解放が
主な意義だったからね。イギリス軍とは南方の島がその舞台だった。

 確か「マレー戦記」だったか、その中でとてもおもしろい記述があった。
 イギリス軍と対峙しているわけだが、お昼になるとその陣地から
「日本軍のみなさん、お昼になりました。コーヒーでもいかがですか」
とアナウンスがされるそうだ。想像を絶した話だな。当然日本語だろう。

 それで、イギリス軍は陣地からひしゃくでコーヒーをすくって戦場に
ぶちまけるのだという。これが戦場なのか。うーーーん。理解できん。
 この話を読んだとき圧倒的に戦争慣れしたものを感じた。
 「戦争って、こんなものなのか」。
 これも戦争なんだ。

 それからイギリス軍は不意打ちを大変に嫌ったと言われている。
 「おいおい、寝込みを襲うなんていいかげんにしろよ」だったわけだ。
 だけど日本人からすれば「おまえらが寝てるから襲うんだよ」だよね。
 ここら辺りの感覚はかなり違う。コーヒーをひしゃくで、も日本人には
理解が難しい。

 ヨーロッパ戦線でも戦争を仕掛ける時間というのは決まっていたらしい。
 「これから攻めますよ」、そんな舞台装置を施してから攻めるという。
 騎士道精神ってやつかね。

 ま、なんだかんだ、いろいろ書いたけどこの日本という国で起こったこと、
日本が関わったことは知っておく必要があると思うってことさ。
 歴史というにはおおげさすぎる。知ってて当然だろう。
 ついでに書いておくとイギリス本土にはたくさんのドイツ軍の爆弾が落とされた。
 ある日、デパートに爆弾が落とされた。翌日、その大きな穴の上に「入り口、
広げました。ここからもどうぞ」と書かれていたそうだ。スケールが違うな。

2010年5月21日

初対面

 初対面は苦手という人は多いと思う。ボクもそうだ。
 だが、分かったことだがこの世で出会う人たち全てに初対面がある。
 だから初対面を嫌がっていてはいけないのだが。

 ゆうべ、よく行く料理屋さんでそんな話になった。
 ボク 「ボクはね、初対面の人と会うと緊張してしまうんですよ、緊張
するというより、これから会う人となに、話そうかって考えてしまって、
それでヘトヘトになってる感じです」

 ママ 「あらー、そうなの、池田さんってそういうふうには見えないけど」
 ボク 「知り合いになって話すのはとても好きなんですよ、ただ初対面の
相手とは、つい、構えてしまうというか、そういうのもあって」

 ボク 「ボクが子供のころから一人で本、読んでるのが好きだったのも
大いに関係してるかも。大家族の人だったらまた別の感想を持つかも」
 ボク 「ママってさー、必ず初対面の人がいるわけでしょ」

 ママ 「そりゃそうですよー。わたしも内心、大変」。
 ボク 「初めてのお客さんが来たらどうするんですか」

 ママ 「話し好きかどうかはすぐに分かるんですよ。(飲み物どうしま
しょうか)って尋ねたときに。そこで判断して(はいといいえ)しか
ない人には話しかけたりはしませんね」。

 ボク 「そういうのって分かるもんですか」
 ママ 「すぐに分かるんですよ。話し好きな人は(このたび東京から
こちらに転勤で、どこかいい店ないか探してるんですよ)って感じで
どんどんつながっていきます。そうしたら観光地とかを薦めてもいいわけ
でしょ」。「名物を紹介してもいいし」。

 ボク 「ボクはとくに初対面の人とはなにか話しかけなくちゃ、話さな
きゃ、って思って、沈黙が続くと罪悪のような感じがあるんですよ」。

 ママ 「だれもが話し好きなわけじゃないですからね。でもわたしたち
のようなサービス業は話の引きだしを多く持つようにはしてるんですよ。
名産品のことも調べたり、食べたりして話題を豊富に持つよう努力は
してるんですよ。あと、話がどんどん展開しない人はそれくらいなものだと
あきらめることも必要かもしれませんね」。
 あなたに質問。初対面の人とはどのようにすればうまくいきますか?。

2010年5月20日

紹介

 よくボクはいろんなところに出没する。
 出没はするんだが、「どうして池田さんはここに来るのかよく分からない」と
聞かされる。あまりしゃべらないからね。どうしてだろう。
 考え過ぎるのかな。

 「今、仕事はこんなことをやってて、これからこんなふうに発展して
いきたいと思います」って言えばいいんだろうけど、「また、池田、あんな
こと言ってらー」とか思われるのが嫌いなのか。

 ただ、ボクは出会った人にはもれなくハガキを出してきたから、実は
その場ではあまり注意しなくてもいいかもしれない。話がうまくない人は
ハガキなども有効に使ったらいいかもね。

 ボクは何年も前に一度出会っただけの人に「そういえば池田さんから
ハガキをいただきました」と覚えてもらっていたことがある。
 ハガキって今はあまり届かないからそれだけ印象に残る作用はあるかも
しれない。

 で、現実にはボクのような「岩国から来ました池田です」はあまり得策
とは言えない。聞いてる人は「この人は恥ずかしいだけで、本当は自分と
いうものを持ってるんだ。ただそれを出さないだけなんだ」とは思わない。

 「なんか、池田って人は変わってるな、遠くからやって来て、それだけかよ」
みたいな印象を与えるだけだ。(実話ね、これ)。

 人は短時間に「やる気」とか「前向きな姿勢」とか「これからの抱負」
とか「チャレンジする姿勢」を表現できるはずだ。と、ボクはこのごろ
人の自己紹介を見ていて気づいた。だから、できるはずだ。

 「オレは今、サラリーマンで、どうってことない人間だ。こんな人間、
どこにでもいますよね」とは心中、思うものかもしれない。だけどそれを
そのまま表現しても楽しくないよね。周囲も楽しくない。
 それこそ「今はどうってことない、ただの自営」かもしれない。

 だけどそれをそのまま表現しても周囲の人たちから「この人は夢のある
人だ」なんてことにはならない。決してならない。
 「これからこんなこともしていこうと思ってます。みなさん、機会が
あればぜひいかがですか」。実際は苦しくともそんなセリフを用意して
みてはいかがだろう。苦しいことを表明しても同情はかっても協力は
得られません。

2010年5月19日

交流会

 おかげさまで、去年からこっち50回くらい交流会をさせていただいた。
 実はこれ、驚くなかれ、20代のころからずっと続けてるんだ。(中断
してる時期、あり)。
 交流会と言っても参加者は二人だったり、三人だったりしたこともある。
 ではあってもゲストを決め、淡々と続けてきた。

 交流会をやろうと思ったそもそもはボクが社会人になったときからの、
自営に就いてから、が大きく関係してる。いつも夜寝るときに漠然とした恐怖が
襲ってくる。

 それは大海原をイカダに乗ってる夢だった。そのイカダを組んでる材木が
一つ一つ離れていく、というものだった。あわてて材木をこちらに寄せる。
 それをしばる。よくそんな夢を見た。

 そのころも技術の進歩はすさまじかった。昨日までの技術や新開発が
あっという間に古いシステムに成り下がった。それを見てボクは改めて思った。
 「技術は古くなることはあるけど、人間の付き合いはいつまでも続く
だろう」ってね。そんなことを前提にした上での交流会だった。

 そんなボクから見るとこんな方をよく目にする。
 それは「陽が当たったら頑張る、当たらないと頑張らない」人たちだ。
 売れると頑張る、売れないと頑張らない。

 要するに脚光を浴びたら勢いを増してくる人たちだ。ボクはこういうのは
まずいと考えている。なにをするにせよ、脚光が集まろうとそうでなかろうと
頑張ってやればいいんだ。他人の目なんか関係ない。

 実力という言葉がある。これは脚光を浴びたとき頑張ってやる、という
意味ではない。注目を集めていても集めていなくても頑張ってやる、だ。

 他人からの評価なんてどうでもいいんだ。「よくやってるね」だとか
「頑張ってますね」とかさ。いらないんだよ。
 こうと決めたらとことんやる。どこまでもやる。評価されようがどう
だろうが関係なし。評価は「されたから頑張る」じゃなくて「頑張って
いれば評価されることもあるかもしれない」でいいんだ。

2010年5月18日

聞く

 あなたはどうだろう。他人の話をよく聞いてるかな。
 ボクは20代のころからよくこんなことを聞かされた。
 「池田さんは話すのがあまり得意そうじゃないから、しっかり聞くことに
したらどうですか」と。ボク自身もよくそう思ってきた。
 それからはできるだけ他人の話をきちんと聞くことに努めてきた。

 そこで、ボクは思うんだな。
 あなたは他人の話をしっかり聞くことができているだろうかと。
 これは案外難しい。

 ボクはいろんな方とお話させていただく。聞かせていただく。
 するとね、「あーこの人はオレの話を聞いてないな」とか「自分が
話したいばっかりなんだな」とかよく見えてしまうんだ。自分が聞く立場
に立つからよけいに分かるのかもしれない。

 大事なことは「しっかり話す」じゃなくて「しっかり聞いて、しっかり話す」
ことだ。フォーカスという言葉がある。ピント合わせでいいんじゃないかな。
 で、自分が話したいばかりの人は自分にフォーカスを当ててる。
 他人の話を聞くときは他人にフォーカスを当て、自分が話すときは自分
にフォーカスを当てる。でいかないとね。

 ボクが思うのに人は「話す訓練」はよくできてる。が、「他人の話を
じっくり聞く訓練」は全くといっていいほどできてないね。

 こちらの話をしっかり聞いてくれないと「あーこの人は聞いてないな、
自分のことばかり関心があるんだな」と思い、話していても注意がそがれて
しまう。よく見かけるのが「自分が話すときはしっかり、他人が話すときは
ぼんやり」してる人。相手には伝わってるからね。

 よく「話し方教室」というのはあるけど「聞き方教室」というのはない。
 話し方は子供のころからみんなやってるわけで、それ以上必要ないんじゃ
ないかな。聞き方をもっとしっかりと鍛えないといけないよ。
 聞くときは相手をしっかり見て、適当なあいづちを入れるようにし、
話がつながっていくように合いの手を入れる。しっかり聞くからしっかり
話すことができるってのが、本当なんだ。

2010年5月17日

 ボクに欠けていたものは熱だと思う。熱くならなくちゃ。
 ボクはこれまでたくさんのことを悩んできた。だれしもあるかもしれない。
 そして、その悩み事っていうのは大きなものがなければ、どうでもいい、
つまんないことでたくさん悩んでた。人間に悩み事は決してなくならないんだ。

 それで改めて思う。「なにもなければ、探してでも人は悩むんだな」と。
 中学生のころのボクは無気力だった。親からなにか聞かれると「別に」か
「どっちでもいい」のどちらかを口にしてた。本当にどうでもよかった。

 「別にオレなんてな、どうなったっていいんだ。自分自身に期待なんて
してないし」、一人でくさってた。あのころ「この世は学歴だけでできあがってる、
勉強が苦手なオレは存在価値がないんだ」って思ってた。
 ま、そういう傾向は今もあるけどね。

 だけど、今、思う。学歴もないボクがいろんなことを熱を持って取り組めば
意外な感じもあってすごくいいんじゃないかと。ボクは思う。この世に
理想ってないんだ。「ああなるのが理想、ああなるのが理想的」って
追いかけても追いかけてもたどり着けない。

 じゃなくて「今の自分」でいいんじゃないかな。くそったれな自分がどこまで
やれるか、が問題じゃないかって思う。お金だってそうで「いくらためたら
これをして」じゃなくて「お金なんかなくてもいいからやろう」でいいん
じゃないか。
 いつまで経ってもたまらないしね。

 ボクは中学生のときのボクがだいっきらいだ。ひねくれて、学歴のせいに
ばかりしていた自分が嫌い。中学校は遅刻して早退してたぐらいだし。

 これからはボク自身が熱を持つ。発熱していく。暑苦しくなる。
 人からも嫌がられるだろう。でも仕方ないな。発熱するってそういう
ことじゃないか。これまでのボクはどちらかと言えば気取りやさんだった。

 スマートにこなしていくことばかり考えてた。だけどスマートってすごく
かっこ悪い。熱を持つ、発熱するってそういうことなのか。違うと思う。
 「ほら、見てみろよ、池田ってかっこ悪い、バッカじゃないの、あいつ」
がこれからの理想だ。

2010年5月13日

撤退

 ボクは物事、うまくいかなければ撤退すべきだと思う。あなたはどうかな。
 仕事にしてもほかのものにしてもうまくいかないことはある。いくらでもある。
 そのとき、「これは始めたことだから」とか「また周囲が失敗したって
言うだろうなー」とか思わないことだ。ボクはそう思う。

 ボクはいろんなことを始めるが、あまり長く続かない。それはやはり
ヒットしないからなんだ。うまくいかない。
 だけど、ボクは「うまくいかないけど始めると宣言した手前それでもやる」
みたいな感覚はない。「うまくいかないからやめる」だ。

 ボクたちはお互いがお互いを縛り合ってるようなところがある。
 「あー、池田な、あいつ、事業始めよったけど、うまくいかんように
なって、やめよったんや」と言われるのを恐れてる。
 「あいつは失敗ばっかりや」とかね。

 それから自分自身にしても「オレってなんで続かんのかなー、ダメなやつだ」
って思う必要はない。「ダメなものはダメなんやから」で十分。
 どんなことだってファンがいればだれもやめやしないって。続かないのは
結局、ファンが集まらなかったから、なんだ。だけどそれは仕方ないじゃないか。
 他人からグダグダ言われることを恐れないことだ。

 「ねーねー池田さん、あれ、どうなったん」と聞かれたら「はい、うまく
いきませんでしたから、撤退します。中止します。力足りずでした」でいい
じゃないか。

 ボクの気持ちの中にも確かにある。「うまくいきませんでした、なんて
言いたくない気持ちが」ある。人にいろんなウワサを流されるのもあまり
良い気持ちじゃない。「ホンマに、あいつはすぐに始めよるけど、やめる
んも早いなー」とかって聞かされたくない。本音ではね。

 だけどさ、ボクたちはそうやってお互いに監視してると言うか、うまく
いくと予想されたことだけスタートさせてる現実があるんじゃないかな。
 やったことは全てうまくいくなんてないさ。必ず失敗はある。
 ボクは他人の目を気にして「とりあえずやってる」ことがまずいと考えてるんだ。
 ボクにどしどし聞いてよ。「あれ、どうなった」って。
 「あれは撤退します。うまくいきませんでした。再起を期します。残念です」。

2010年5月12日

目立つ

 「日本の学校ってさ、先生が(はい、それでは質問のある人)って
言われると黙って下を向く。そのくせ、質問タイムが終わると(つまんない
時間だった)とかぐちぐち言うよね」。
 ゆうべ、23歳の男性と酒を飲んだ。

 彼が激しく同調してくれたのは上のセリフだった。
 「そうそう、みんなそういうところあるんですよ。だれか意見のある人って
言われると、そのときは黙ってる。だけど後でぶちぶち文句を言うんですよ」。

 彼 「だけどその中で挙手したりするやつがいると、すごいなーって
思うんですよ。アホで挙手するやつと賢くてするやつがいるけど、
どっちにしてもすごいと思う」。
 ボク 「だけどあんたは挙手しないんだよね」
 彼 「しませんね。あとでぐちぐち文句をつけるタイプです」。

 ボク 「オレ、中学校んとき生徒会長に立候補したことあるんだよね。
そのとき体育館で立ち会い演説会とかやってさ。ただ、なんで立候補
したのか今になっても分かんないんだけど」。

 「それでさ、体育館で壇上に上がったとたん、たくさんの顔がボーーーッと
浮き上がって、それを見たら頭、真っ白。それで(公約はありません)とか
言っちゃったら、前の方の人が(アハハ)とか笑って、だからオレ、なにを
話したか全く覚えてないんだよね」。

 「公約がないってのは自分なりには廊下に貼り出したからそれを見てくれって
つもりだったんだけど」。「頭の中は(笑われた笑われた)に占拠されて
しまってさ」。

 ボク 「だからさ、生徒会長もそうだし、意見を言うのもそうだと思うけど、
実はやってみるとかなりしんどいことなんだよ。挙手するのって大変。
それを周囲から(こいつ、へたくそだな)と批評するのは簡単なんだけどさ、
オレもあるときまでは(挙手する自分の姿が恥ずかしい)とか思ってた。

(目立ってどうするんだよ)とか突っ込みを入れたりしてね。だけど
挙手するやつを見て(こいつ、バカまるだしだな)と批評するよりもさ、
やってみることの方が1000倍くらいすばらしいことだと今は思って
るんだよね」。

2010年5月11日

一匹

 ゆうべ、三人でお食事アンドお酒を呑ませていただいた。とても楽しい
晩だった。ありがとう、木下さん。
 中でこんな話があった。
 「この地域ってみんなが固まってるんですよ、ひとかたまりになってる。
だから芋づる式に人と出会う。全国的に見ても広島で成功すればよそでも
うまくいくって言われてます。アンテナ店が置かれるのもそういう理由
なんです」。ボクもやはりそういう面はあると思う。

 こんなことがよくある。
 セミナーが開かれると言うから出かけてみると「あら、なになにさん」
こちらでは「あら、だれそれさん」って具合だ。かなりだぶってる。
 これも同じような話かもしれない。

 ここに魚の玉があるとしよう。巨大な魚の玉はそれ自体が外側からの
攻撃にはとても強い。同質性もある。中にいると安全で安心できる。
 だが、この魚の玉はよその魚の玉とは交じり合わない。あえないんだな。

 一匹でフラフラさまよって泳いでるやつじゃないと、はじかれるかも
しれないけど、受け入れてもらえることも、また、ない。
 この魚の玉を強固にすることはすばらしいことだが、それが世界の全て
だとなると納得がいかない。この魚の玉は環境がすばらしいけど、よそは
どんな世界が広がってるのか見たくもなる。そう思いませんか。

 あなたはこの一カ月で何人の知らない人に出会いましたか。
 ボクが代わりに応えてあげよう。ゼロか2・3人だろう。
 ボクの中にもある。「受け入れてくれるかどうかが大事なんだ。ハネ
(のけもの、軽く見られる)にされるくらいだったら、この集団の中が
居心地がいいから」と思う。ボクも安心していたいんだ。

 だけれども、よそに巨大な魚の玉があるかもしれない。それをうらやましく
感じつつ、「やっぱりこの中がいいや」と思うかどうか。

 たまには一匹にならなければならない。それは孤独でさみしいことかも
しれない。だけどね、一匹にならないと受け入れてはくれないよね。
 一匹だから「こいつってかわいい」とか「見所がある」になるんだよ。
 「それなら魚の玉でよその玉に接近すればいい」と思うかもしれない。
 そんなのは向こうの玉と規模を競いあうだけさ。いつもいつもじゃ
なくてもいいけど、ボクたちは一匹にならなければならない。

2010年5月10日

問い合わせ

 先日、ある方から問い合わせの電話をいただいた。ふと思った。
 「そういえば久しぶりだな」と。あなたはどうだろう。問い合わせって
ありますか。ないだろう。それはなぜか。

 電話を受けてすぐに何人かの人間が思い浮かんだ。ある人は連絡を
受けて「うちではそれは扱っておりません」みたいな返事をしたようだ。

 なぜ問い合わせが来るのか。問い合わせはとても困った事態が持ち上がり、
解決のために奔走する。その中でたくさんの人間が浮かんでは消え、消えては
浮かぶ、が問い合わせのそもそもだと思う。
 要するにボクたちに日常的に問い合わせが発生しないのは、「あなたに
頼んでも解決は難しいだろう」と思われているからなんだ。

 ボク自身は問い合わせに対しては「最後の防波堤」になろうと考えている。
 「自分のところでがっちり受け止めるぞ」だ。たらい回しはさせないつもり
でいる。「それはあの人に」「これはあの人に」「こういうグループがある
から、告知したら解決するかもしれない」どれかの回答をすることにしてる。

 「さー、知らないなー」「そんなこと、考えたこともなかったよ」「うちは
そういうの、専門じゃないから」。こんな返答をしたことはないだろうか。
 これは逆に考えると「あいつはとても狭い世界で暮らしているんだな、
きっと世界が変わったら仕事に行き詰まるだろうな」と思われてるはずだ。

 ボクたちは生きているだけで日々、たくさんの情報に接し、たくさんの
人たちと出会う。それらは自分の中に蓄積され、データベース化されてる
はずなんだ。それをいつでも取り出せるようにしておくことが、頼んで
きた人にとっても役に立つ。

 問い合わせとは非日常の話だと思う。だれでもすぐに解決ができる事柄
なら、依頼してきた人が解決するだろうし。そうではなく、自分に問い合わせ
があったということは、一般的には難しい案件が持ち込まれたと考えた
方がいい。それをこなしていくうちに自分自身が鍛えられていく。
 「オレの仕事はこれだから、専門はこれだから」なんてやってる人は
情報も入ってこないし、世界を狭くして新たな流れに乗ることは難しくなる。
 問い合わせは大いなるチャンスだとボクはとらえているんだ。

2010年5月 7日

 ボクたちの気持ちの中には「位意識」ってあると思う。それで、これは
とても邪魔なものだと考えている。
 つい先日、大学をでたばかりの男の子に「ねーねー酒でも呑みに行こうよ」
って誘った。が、「このごろ忙しいから無理です」って断られちゃった。
 思ったね。「こんちくしょう」って。「てめーなー」って。

 ボクたちの気持ちの中には同等の人と付き合いたい気分みたいなものがあるね。
 中小企業の社長であれば同じくらいの規模の社長と付き合うんだ。
 バッカじゃないかね。まったく。
 その果てはなにか。同質化さ。みんな同じになっちゃう。

 ボクはあなたに聞きたい。あなたは相手の位を無視して誘うことができますか、と。
 難しいだろうね。それはなぜか。なぜですか。
 ボクたちは勝手に世界を狭くしてるだけなのさ。

 中小企業の社長であれば「おい、呑みに行くぞ」と声をかければついてくる
人だけを相手にしてるのさ。これはまず間違いないね。「すいません、
忙しいので」って返事が返ってきそうなときは、誘わないのさ。

 ボクはそこに自分の中にも位意識を感じてしまう。
 「なぜ、誘えないのさ」って自分に問いかける。ボクの気持ちの中にも
「だってさー、相手はものすごく年下なんだぜ、誘って断られたらこっち
がバカってことじゃないか」って。思う。だけど、そこで少し補充したくもなる。

 「だけどさ、誘って断られない相手だけと付き合ってると、こっちも
全く変わらないんだぜ」と自分で自分に突っ込みを入れる。だよなーと思う。
 みんなはさ、意識してないだけなんだよ。
 「だれだって誘えるか」考えたこともないんだよね。

 あなたにはあなたにふさわしい相手がいるのだろうか。付き合うに足る。
 ボクはそういう考え方はしない。だれだっていいじゃないか。
 いつでも、どこでも、だれとでも。いかなくっちゃ。
 「だってさー、あいつって大学、でたばかりだぜ、オレとはなにもかも
違ってるんだよ」だよね。ボクの中にもある。ボクはその気持ちをバッカ
じゃないかって思うんだ。

2010年5月 6日

横並び

 実は、ボクたちは横並びを期待してるんだな。ボクはすさまじくその
エネルギーを感じてしまう。そして、もうやめようよって思う。
 ボクがなにか提案をする。賛成してくれる人は多いだろうか。そんな
ことはないんだな。ほとんどの人が反対する。そんなものだ。

 どうしてボクたちは一人突出しようとすると足を引っ張るのだろう。
 「やってみなよ」「踏み出せ」「失敗してもいいじゃないか」なんて
聞かれないなー。
 「なんであんたが」「有名になりたいの」「それで、お金はいくらもらえるの」
ってね。ボクはそのとき、横並びを強く意識させられる。
 「結局、みんなが一緒じゃなきゃいけないんだよな、この地域って」。

 いつだったか、知り合いの誕生日にグリーティングカードが届くって
楽しそうだと思い実行した。いろいろ知恵を出して「どうせだったら
その人の誕生日になにが起きたか書き加えてもいいな」と思い、そうした。

 ただ、誕生日当日にカードが届くためにはかなり念入りに用意しなくては
ならず、やってみるとその大変さはバカにならなかった。
 毎日事務的におこなうのならまだいいが、知人や友人の誕生日なんて
めったにあるものじゃない。そのサイクルが不定期でやってられなかった。
 たくさん書き出したつもりでいても数にしてみればあまりない。

 メールならだしたその日に届くけど、カードだと念入りにやらなくては
ならない。そんなこんなですぐにやめてしまった。
 また、驚きがあるのがいいんであって、「あーあの人からはカードが
届く」って分かってたんじゃ興味も半減する。要するに翌年は使えないわけだ。
 届けられる人にしてみても事務的じゃつまんないだろうしね。

 こういうアイディア、周囲の人に聞かせてみるとほぼ100%反対されるね。
 みんなのすごいところはやる前から「やめなよ」「ダメだよ」って教えて
くれるところ。すごいなー。やる前から結果が分かってるんだから。
 やってみると、ま、うまくいかないことが多いんだけどね。

 「オレって少し頭が足りないの」なんて思う瞬間だね。だけどね。
 思ったらすぐにやってみるって大切だと思うんだ。結果は分かってる
かもしれない。結末も。それでもね。横並びはやはりまずい。一人、突出
しようとすると「お、出ましたね、いつものパフォーマンス」って言われて
しまう。みんなで足の引っ張りあいっこだ。
 ただ、ボクはまだまだやるよ、これからも。