2009年9月30日

ヒラメ

 ヒラメという魚をご存じだろうか。悪食として知られている。
 ボクが住むところは瀬戸内海に面しているからこの魚はなじみがある。
 ただし、釣ったことはないな。

 この周辺で釣れるのはこれからの季節、食べてもおいしいカレイだ。
 カレイは「トウネンゴ」と呼ばれる「今年生まれたもの」でも
20センチ近くに達する。カレイを釣るには少々コツが必要だ。

 この魚は釣り糸を飛ばすとそのままほったらかしにしておかなくて
はならない。食いつくのをひたすら待つ。
 竿先に鈴などセットしておくのもいい。

 これがチリリンと鳴っても、まだ竿に触れてはいけない。もう
しばらく我慢する。この瞬間にカレイはそしゃくしているという
ことになる。

 最初のチリリンからしばらく待つともう一度チリリンと鳴る。
 このときだ。
 竿を手にしてしゃくってやる。あおるわけだ。
 「しゃくる」というのは竿を少し強く引っ張ることで、合わせと
言われている。釣り針が魚にしっかり食い込むようにするわけだ。
 ヒラメからカレイの話になってしまったな。

 ヒラメはどう猛な魚で釣り上げた魚が岸に寄せられる途中に
その魚に食らいつくと読んだことがある。ボクは経験ないなー。
 カレイはゴカイで釣るがヒラメならフィッシュイーターという
ことでルアーかなにかになるんだろう。フィッシュイーターとは
「魚を食う魚」という意味。

 このヒラメ、近くで養殖している。
 養殖そのことは前々から知っていたが先日、ある温泉に行くと
「養殖場、見学無料」と案内があったので出かけてみることにした。
 徳山沖にある笠戸島。
 笠戸島は島だと思うが赤い橋がかかっており、いつ渡ったか(車)
分からないほどなので島だと認識しないほどだ。

2009年9月29日

自転車

 ガリリ ガリリ ガリリ
 なんの音だか分かりますか。分からないですよね。先日、近所を
歩いていると久しぶりに聞いた。これ、自転車をこぐ音なんです。

 うちは山だから。山に住んでないと聞かないんじゃないかな。
 中学生くらいの男子が立ってこいでた。立ちこぎ。ガリリ、ガリリ、
いわせながら。

 山はもちろん勾配があるからペダルに負荷がかかるみたいだ。この
ペダルを思いっきり踏ん張るからギアチェンジしたみたいになる。
 ガリリ、ガキキ、ガリリ、ガキキ。
 このままやってるとペダルがゆるゆるになって外れてしまう。

 自転車屋さんで直そうとするも摩滅しててなかなか言うことをきかない。
 ボクも子供のころこの症状をやらかしていた。
 うちの団地は片方は長い長い坂が頂上まで続く。ここを立ったままでこぐ。
 子供のころ自転車は5段変則ギアがはやっててみんなのあこがれだった。
 ボクも買ってもらった。

 当然、坂道というものはギアの軽いところで走るものだ。ペダルを
踏んでいてもスカスカって状態。だが、子供のころのボクはかなりの
アホで一番重いギアで走ることにこだわっていた。

 ペダルには負荷がかかり過ぎ、すぐ壊れることになるが。
 馬がいななくように一番重いギアでヒーヒー言いながら坂をあがる。
 ボートみたいに身体が後ろにのけぞる。

 一番重いギアで頂上まで自転車から降りずにこぎ続けることにステータス
を感じていた。アホみたいなステータス。この達成率は驚くほど低かった。
 ギアつきの自転車はチェーンが外れることが頻繁に起こる。

 直してやるのが一苦労だった。手は油でベトベトになるからね。
 直すコツはギアを少し回してやりながらチェーンを乗せること。だ。
 ギアは一番小さいところが一番重いギアになる。
 自転車はエコな乗り物だそうだから見直してみてはいかがだろうか。
 うちの団地は山だからアシスト付き自転車じゃないと難しいかもね。

2009年9月28日

コロッケ

 うまかったなー。
 このごろパン屋さんのコロッケが気に入ってよく買って食べる。
 コロッケと言えば子供のころたまに買って食べたもんだ。

 大人になってから知ったんだけど「お肉屋さんのコロッケは
おいしいんだ」そうだ。子供のころ食べたコロッケもお肉屋さんで買った。

 今でも思い出す。
 雨が降ってて。
 近所の軒先で食べた。友達とはんぶんこした。
 コロッケは店先であげてた。
 そのあげる様子をよく覚えてる。

 たまに子供のころ食べてたものを改めて食べてみたいっと思うこと
ありませんか。そのころはとてもおいしいと感じていて。でも
なかなか食べる機会はなくて。食べてみるとあまりおいしくなかったりして。

 子供のころ父親が「オレが子供んころよく食べたもんや」とアケビ
という果物を持ち帰ったことがある。果物っていうか、ツル植物の果実だ。

 実は赤白く(確か)開けると紫色の果実が見える。口にふくむと果物と
言えば言える。そしてほとんどがタネ。これが邪魔だった。
 「こんなものをおいしいと口にしていたのか」そんなふうに感じたな。

 ボク自身が子供のころ口にしていたものは。コロッケもそう。
 カレーとか。父親の作ったチャーハンもとてもうまかった。
 子供のころ食べてたものを再度、食べてもあまりおいしいと感じない
ものだ。もっともっとおいしいと感じていたはずなのに。

 コロッケは「それを買うとあれが買えない」状態の中、買ってた。あれが
良かったのかもしれない。
 子供のころって食べるものでもなんでも切り詰めてから買う。
 おいしさアップの秘訣かもしれない。

 コロッケってスーパーとかである「三つ入っていくら」はおいしくない。
 子供のころもおいしく感じていて大人になった今でもおいしい。ボクに
とってのコロッケはそういう存在だな。そういうものってあまりないよ。

2009年9月24日

京都13

 磯辺は車の免許も取得した。
 「おい、免許ってとっても(取得)ええんかよ」、(実際は関西弁)。
 「学校にはだまって取った」。

 驚いた。それは高校三年ともなると早いやつは18に達する。
 だけどそれが免許とどう結び付くのか。
 彼が運転する車に乗せてもらうこともあった。
 父親は車を運転してたからよく乗っていたが彼の運転するシビック
は全く違う意味合いがあった。

 「おい、この魔法の機械はオレが海を見たくなったら連れてって
くれる、夜景を見たくなったら夜中だってかまわないんだぜ」。
 言葉にはならなかったがそんな夢の機械を見るようだった。

 「おい、この車ってどうしたんだよ」。
 「兄貴のや、両親が結婚式に参加するから乗せてくれーと言われとるんや」。
 「えっ、おまえが運転して迎えに行くんか」。
 ボクは新しい親子の付き合いを見た。気分だ。
 親公認か、こいつんとこは。

 磯辺の家は車の販売店だから自然と言えば言えた。
 高校生が車に乗る。それはすさまじいカルチャーショックだった。ボク
も18で免許を取得してはいるけど。後から考えれば「どっちでも同じ
だろ」とは思うんだが。それでもねー。

 それまでボクは学校というものに対してもっともっと素直に従っていた。
 従ってることすら意識しなかった。だが彼と話していると
「オレってすごくまじめ。すごーい」とか改めて感じさせられた。

 もう一人、すごく印象に残ってるやつがいる。
 名前は忘れた。こいつも滋賀だった。

 「おい、池田、おまえ、たまには息抜きせーよ」(実際は関西弁)
で連れて行かれたのが学校近くの喫茶店だった。喫茶店の手前、
50メートルくらいから辺りにはすごく良い香りが漂ってた。
 中に入ると同じ学校のやつらがたくさん。「もう学校、始まってるし、
みんな平然としてるし」。「それにみんなタバコプカプカだし」。
 店内はもうもうと紫煙が漂ってた。

2009年9月19日

京都12

 ボクにはとても興味深い転換点があった。
 高校二年のとき同じクラスに磯辺というやつがいた。こいつとの
出会いはすごく印象的だった。磯辺は滋賀県に暮らしてて兄弟は
何人もいて上の兄は子供までいるという話だった。

 ボクはこの磯辺と話すことで自分の内面を見させられることとなる。
 こんな具合だ。
 「おい、磯辺、おまえ、何点なんだよ」。数学とか理科の点数を尋ねた。
 「8点、やったかな」。「おまえはバカか」
 彼の頭の悪さを笑いながらボクは内心、複雑だった。

 ボクの頭(考え)の中には「点数が悪かったら隠すんだ」があったから。
 「それをこいつは堂々と公開してる。どういう感覚、してるんだ」だった。

 ボクは中学のときに陸上部だった。陸上部では定期テストが終わると
みんなが集まって点数を見せあってた。ボクはその集まりを避けてた。
 どうせ点数なんか悪いし、ほかのやつらに負けるに決まってるんだから。
 だけどこの磯辺は悪い点数で堂々としてる。
 ボクにはワケが分からなかった。

 磯辺と話すようになってボクは自分の点数を公開するようになった。
 隠して隠して、のときと比べると空を飛んでるような身軽さがあった。
 「オレはなにをやってきたんだろ」、そんな気持ちだった。

 「頭が悪いことを隠すことが一番恥ずかしいことじゃないか」、
ボクは磯辺と話しててそんな現実を突き付けられた。
 ボクはこのころそれができるのにもかかわらず「できない」とよく
口にしていた。わざと自分を下に表現していた。
 それもこれも本当の自分を知られることに対する恐怖心からだった。
 だけれども磯辺と話すうちにそんなことはどうでもよくなった。
 「本当の自分、ありのままの自分、がこんなにも気軽、身軽だったなんて」。

2009年9月18日

京都11

 実は京都にはテレビ、洗濯機、クーラー、暖房の類い、なにも
持参しなかった。言葉にはならなかったが「オレは今までのオレと
違うんだ」みたいな感じだった。
 この時代に洗濯機もないなんて。どうかしてる。

 当初は洗濯板で洗ってた。だが、同じアパートの人たちが里に
帰るときに「池田さん、これ使ってよ」でちょうだいすることにした。
 洗濯に関してはここからまともになった。

 アパートの部屋は。
 この部屋のことについてはこれまで散々いろいろな人に解説し、
説明を続けてきた。きっと改めてここに書いても「こんな部屋が現実に
存在するとは」まさか、とても信じることなどできないはずだ。断言できる。

 部屋には二つ、窓があった。
 一つは洗面台に面して、一つは渡り廊下に面して。
 要するにこの部屋に窓はなかった。牢獄よりもひどいな。
 ここにクーラーなし。

 夏なんてすさまじいことになる。ハーハー言って夜中に近くの自販機
に走る。「グレープの500」(コカコーラのじゃなく。炭酸)を
買いに行く。そんなの一晩で空っぽになってしまう。すさまじい暑さだった。

 ただ、グレープは身体に悪いので途中から牛乳、コーヒー牛乳に変更した。
 すさまじい部屋だけどこの部屋にいる時間は夜11時から明け方の6時
半まで。いくら暑いとはいえあまり関係はなかった。同じ理由でテレビ
の必要性は全く感じなかった。持参しなかったがスイッチを入れる時間
もなかった。

 冬は暖房がなくともへっちゃらだった。
 このアパートは大学生が大半で金曜の夜になると決まってジャラジャラ、
そう、マージャンが始まった。こっちはどろどろにくたびれているから
関係なく寝ちゃったけどね。

2009年9月17日

京都10

 中学生になってすぐのことだった。担任の女の先生が「みなさんも
しっかり励んでクラブ活動に入ってください」とお言葉をいただいた。
 ボクはあまり考えておらず母親からの「お父さんは剣道をやって
ほしいみたいよ、剣道にしたら」のアドバイスに従って剣道部に
入部した。

 剣道部にはかわいい女子もいたのだがすさまじい悪臭が漂っていた。
 当たり前だわな。悪臭は関係なく剣道部にはすぐに行かなくなって
しまった。理由とかは見当たらないなー。

 よそのクラブから転部してきた上級生が「あれっ、池田、まだ、
これ(剣道部)、やってんの」みたいに言われカッカきて本当に
行かなくなってしまった。ま、それまでもずっとズルを決め込んで
いたんだけど。引き金だった。

 確か夏の暑い盛りだったと思う。
 学校が終わってすぐに帰宅。午後4時ころだ。部屋にクーラーをかけ
テレビを見て過ごしてた。親が帰宅したらきっと文句を言う
だろうからその点だけビクビクしていた。

 見たくもない、少し前にやってた青春ドラマをやってた。
 本当に、楽しくもなんともなかった。

 中学校も一度遅刻し、それに対してあまり文句を言われなかったので
習慣になってしまった。一年で60回か70回は遅刻してたんじゃないかな。
 こうして改めて書いてみるといけないサインがたくさんでてる。
 ふぬけ、そう、どうかなってしまった、そんな感じだった。

 ただ、二年生になり友人がキャプテンをつとめる陸上部に入部して
少しまともになった。友人と一緒に通うので遅刻もなくなった。

 ただ、生徒会長立候補の原点はここにあったと思う。
 毎日、つまんない瞬間を過ごすことに飽き飽きして。
 それがひいては京都に単身乗り込んでいくことのきっかけに
つながってると思う。京都に行くのは話があってわずか30分で
決めちゃった。全く悩むこともなかった。

2009年9月16日

京都の9

 と同時に「なぜたった一人で京都に留学することにしたのか、なにか
悪いことでもしたのか」もよくされる質問だった。
 これの応えと重なるかもしれない。節制の生活が。

 ボクは中学3年生のとき生徒会長に立候補した。
 今、改めて考えるとボクの中に生徒会長とか代表委員などどこを
探しても見つからない単語だ。それが中学生のとき立候補したんだから。
 すごいことだ。

 ちなみにこのとき生徒会長に当選した男子はボクの同級生で2年に
1人の割合ででるという東京大学に現役で進学した。
 いまだになぜ、ボクがこのとき生徒会長に立候補したのかよく分からない。

 きっとなにかを変更したかったんだと思うけど、それがなにかも
分からない、きっともがいて、もがきまくっていたということだろう。
 生徒会長の立候補、立ち会い演説会は体育館でおこなわれた。
 同じ中学校の人間を前に話しするだけなのだが。
 壇上というものがあんなに緊張するものとは。

 ボクはそこで人生初の頭の中、真っ白、になってしまった。
 壇上で「ボクの公約はありません」と発すると周囲からクスクスと
笑いが広がり、ボクは自分がなんの用事でそこにいるのかすら分からなく
なってしまい。強制的にしめくくって壇上から逃げるように降りた。

 あのときの記憶はいまだにはっきりしない。
 頭で考えるのと実際にやってみることとの間にはすさまじい違いが
あることが分かった。

 「公約がない」というのは「立候補ポスターなどに書いてあるので
そちらを見てください」と言いたかったのだが。
 「笑われた、笑われてしまった」ばかりに注意が向き、いいところ
ゼロで壇上をあとにした。がっくり。

2009年9月15日

京都の8

 お風呂は銭湯を利用することにした。銭湯はうまい具合に食堂の
向かいにあり便利だった。ただ、この時代、とても目まぐるしいことが
起きた。銭湯の値段がたびたび値上げされたんだ。120円くらいが
出発だったと思う。何回か値上げされた。

 お風呂は途中から変更を余儀なくされた。
 よその銭湯ってわけじゃなく入り方を変更した。
 毎日、あまりにも忙しく、あわただしく過ごしていたので冬の期間は
一日おきに入ることにした。夏はやはりそうはいかない。ただ、そんな
夏も工夫した。まず入ると浴槽につかるものだと思うが、ここを省く。

 まず入るとすぐに身体を洗う。そして湯船につかってあがることにした。
 お風呂からあがるとあまりにもあわただしいのでここでも工夫するよう
になった。シャツのボタンは一つとばしでつけることにした。

 銭湯には二人のおばさんが変わり番で番をされていたが変わった人を
見るような顔で見られていた。変わった人だよな。
 軍隊じゃないんだから。

 ここの銭湯は少し変わっていた。聞けばなるほどと了解してもらえる
はずだが。番台に座るおばさんは出口に向かって座っていた。
 聞けばなるほどと思うでしょ。でも不思議だったなー。
 ボクも子供のころ利用したことがあるが番台の人は浴槽に向かって
座っていたもの。どっちが主流なのかは知らないけど。

 さて。
 ここらでボクの京都生活において決して外してはならない要素を
書くことにしよう。それは忍耐というか、節制ということだった。

 昭和50年代という時代は既に忍耐とか節制とかの言葉は消滅し
かかっていた。なぜにボクがそこにこだわったかというと。
 それまでの生活があまりにも自堕落だったので揺り戻しが起こった、
と自分では考えている。

2009年9月14日

京都の7

 アパートで生活が始まった。衝撃的なことが起こった。
 家主のおばさんがボクのところにやってきた。
 何事かと思えば「池田さん、なんとかって人から電話がありましたよ、
それでも池田さんは留守だったので。電話などは入らないようにお願い
しますよ」と言われた。

 そのころもちろん携帯などあるはずもなく、部屋にも電話はひいて
なかった。部屋にいること、そのものがないのだが。
 だが、家主さんの言葉には驚き、ショックを受けた。
 「電話とかかかってこないようにお願いしますよ」って。ま、言われれば
そうなんだけど。ショックだった。

 時代として取り次ぎなんてシステムはとっくの昔になくなっていて、
めんどうなだけだから。高校の同じクラスのやつからだった。
 所帯を持つというのはこういうこと、もろもろを含めてのことだった。

 新聞の勧誘がやってくる。
 「お兄さん、いまどき新聞もとらない人なんていませんよ、一カ月で
いいからお願いしますよ」。サングラスをかけた男性の言葉にひるむ。
 「すいません」「いりません」を繰り返していると「チッ」という
言葉を残して消えた。
 アパートに住んでいると「こんなことも起きるのかー」って思った。

 これとか、なんだとかかんだとか、みんな親が引き受けてやって
くれていたんだ。ボクにはものすごくショックだった。

 アパートに入る初日、あいさつ回りをすることになった。
 母親が「わたしがあいさつするけー、あんたもついてきんさい」と
言われた。が、ボクはそれを断り「オレ一人であいさつに回ってくる」
と宣言した。ボクの闘いはこの日から始まったと思う。

 どこかしら「もう親には頼れん」と自覚したってわけだ。
 アパートに入って何カ月かしたころ部屋でビートルズを聞いていると
「うるさいぞ、何時やと思っとるんや」(実際は関西弁)と
どなられた。生活するってことはこういうことも引き受けるのか。
 改めて自覚させられた。

2009年9月11日

京都の6

 スーパーイズミヤではカツ丼定食を食べることもあった。うまかったなー。
 定食なのでお味噌汁がついてくる。いつだったかフタを開けるのに
苦労していた。すると店のマスターが「こうやってやるんよ」と教えて
くれた。器の両端を挟んでやるとパカッと開いた。
 スーパーの二階にはレコード店もありビートルズとか買った。

 一人暮らしをするとなると問題になってくるのが資金面のやり繰りだ。
 当然、ボクには収入はないので仕送りしてもらう必要がある。
 母親から「これから毎月、6万円、仕送りするけー、この範囲内で
うまくやってよ」と念を押されていた。

 6万円から1万円は家賃に消えてしまうので残った5万円がボクが
消費できる金額の全てだった。一人とは言え、「所帯を持つのは大変な
こと」だった。

 なぜって送ってもらったお金を使い果たしてしまったら飢えてしまう
ことになるんだから。高校生くらいだとこんな感覚は皆無だ。

 「親にねだって小遣いを多くしてもらう」「バイトでもするか」
くらいしかない。だが、ボクは「この5万円をうまくやり繰りすれば
自由に使えるお金が多額にある」とも言える状況になったわけだ。
 高校の授業料は親元から送金してもらっていた。

 それでも京都で生活を始めたのは15のころだったから。やり繰り
そのものが皆目、見当もつかなかった。なので高校一年のころは
毎月毎月たくさんのお金が余った。用心して用心して生活してたから。

 そのころお金は親にもらった財布に入れて机の引き出しにしまって
おいた。通帳などは用意しなかった。

 高校生の分際で自活するというのはなかなかに刺激的なことだった。
 お店に行き、なんでも好きなものを買った。それまでの人生の中で
こんなに刺激的なことはなかった。晩飯にしても「今日は何にするかな」
って高校生がこんなことを考えるはずがない。自活する人間の特権だった。

2009年9月10日

京都の5

 「ブルーマウンテン350円」「ブラジル250円」とか書かれた
白いノボリが、っていうかぼんぼりみたいなものが垂れ下がっていて
不思議な気持ちで見ていた。

 それまで喫茶店とか行ったことないし、パーラー(喫茶部)みたいな
ものとも縁がなかった。コーヒーも知らなかった。
 ただ、そこら辺りから香ばしい匂いがただよってくる。これに
すごく興味をひかれたんだ。「何なんだ、これは」。

 そうして、かなりしてからやっとの思いで注文した。
 確かブルーマウンテン。「意を決して」だった。
 注文すると目の前にコーヒーが運ばれてきた。「コーヒーってこういう
ものなのかー」。砂糖もクリームも入れず呑んだ。どこがおいしのか
さっぱり分からなかった。

 「ほかの人たちはこんなものをおいしいと感じて呑んでいるのか」。
 コーヒーをお茶を呑むようにして流し込んだ。店の人が「こいつは
おかしなやつだな」みたいな目線を送っていたっけ。
 ボクはコーヒーも知らなかったが、たゆたうこの香り、みたいな
時間を過ごす友、だなんてまるで知らなかったから。

 スーパーイズミヤではいつも細巻きを買って帰るのが楽しみだった。
 一本90円から110円くらいまでの細巻きが販売されていた。

 鉄火、ウメシソ、イカとシソの入ったやつ。などなど。これらを
8本くらい買って帰りマンガ本を読みながら食べるのが日曜日の
娯楽だった。ここでは確かバッテラ(サバ寿司)も販売されており
よく買ったものだ。これもすさまじくおいしく感じた。

 これまでのボクの人生の中でこんなにおいしものとたくさん出会う
ことはなかったから。それまで家庭での食事はナベで作った料理が
多かった。煮っころがしのようなもの。とにかく毎日、このナベが
空っぽになるまでだされる。そんな食生活だったから、ボクには
この状況はカルチャーショックと言ってもよかった。

2009年9月 9日

京都の4

 人間が生活するということは、分かったことだが「寝るところの確保」
「メシを食う」「風呂に入る」「洗濯して身辺をきれいに保つ」「家具
や洋服などがきちんと収納してあること」「弁当の用意をする」
「ふとんなどの用具を整える」「暖房、冷房の設備を整える」などが
あげられる。

 分かったことだが高校生くらいだとこれらのことは実感としては
分からない。「おまえもさー、親がいていろいろやってくれているだろ」
とか話しても分かるはずがない。「そんなの当たり前だろ」で片付けら
れてしまう。

 だが、一人暮らしが始まると、これらのことを一つ一つ片付けて
いかなくてはいけなくなる。
 まず「寝るところ」、紹介してもらって1万円でありつくことができた。
 確かかなり値引きしてもらったはずだ。

 「メシを食う」は近くの食堂でお世話になることに。母親と一緒に
「ここがええんとちがう」みたいな感じで食堂の扉をガラッと開けた
のが、今でも思い出せるくらいだ。

 食堂のおやじさんは「毎日、ここで食うとか決めんでもええ、決めたら
しばられてやりにくいで」みたいな話をされた。(実際は関西弁)。それも
そうだと思ったが、結果、ほぼ毎日、この食堂を訪れた。
 高校生なのでビールとかはなし。

 ほぼ毎日、チキンカツ定食(480円)、かトンカツ定食(650円)
を食べていた。値段まで覚えてる。値上げとかは利用してる間、
なかったと思う。

 土曜日は少し離れたところにある中華料理さんを利用した。ここは
出前が多い店だった。ここで酢豚に出会う。ボクはこれまでこんなに
おいしいものと出会ったことがなかった。すさまじく感激したものだ。

 日曜日はかなり遠くにある「スーパーイズミヤ」に出かけた。
 京都には普通にどこにでもあるスーパーだ。
 スーパーの中にパーラーみたいなものがありコーヒーが呑めた。
 ボクは人生において初めてここでコーヒーと出会う。

2009年9月 8日

京都の3

 京都で生活する間、とても抵抗のあった言葉がある。
 それは「あかん」である。あかんとはこちらの言葉では分かったこと
だが「いけない」、方言では「いけん」と使う言葉だ。

 とにかくこのあかん、使うのにすさまじく抵抗があった。
 ボクの中で京都に溶け込んだかどうか、が最大に問われる言葉だった。

 京都では本当に「のけ」「け」が氾濫していた。
 「してんのけ」「行くんけ」「帰んのけ」「やらへんのけ」。
 京都の言葉で特徴的なのは「へ」と「け」だ。
 山口県では「行かないのか」だが、京都では必ず「へ」が入る。
それに、け、だ。
 あなたが使う言葉にこの「へ」と「け」を入れればかなり関西弁っぽく
なりますよ。

 あかん、もいろいろだ。
 「あかーん」(いけないという意味)
 「あかへんて」
 「あかんあかん」
 不思議と「あきまへん」は聞いたことがない。

 この最後まで抵抗あったあかん、だが3年も暮らすようになると
とうとう使うようになった。このあかん、山口県に戻ってからもいつまでも
抜けず自分でもおかしかった。一番抵抗のある言葉がいつまでも抜けない
なんて。そんなものかもね。

 高校の同じクラスのやつからは一人暮らしをものすごくうらやまし
がられた。だが、それは所詮、やってみないと分からない、という
やつだった。

 これまで当たり前にやってもらっていた自分の身の回りのこと。
 高校生くらいだと「当たり前の身の回りのこと」すら実感がわいて
こないはずだ。
 それを全て自分でこなしていくことの大変さ、なんて分かるはずもない。

2009年9月 7日

京都2

 今から思うのになぜ京都でこれだけ大阪の言葉が氾濫していたかと
いうと。きっと京都の人間にとって大阪の言葉は「少し上」だった
からに違いない。

 京都に「いきがる」という言葉があるが、生意気にふるまう、くらいの
意味になる。いきがる、一つの手段として用いられていたような気がする。
 単に大阪の人間がたくさんいた、というのも確かな事実。
 東京周辺の人が方言があるにもかかわらず東京の言葉を話そうと
する、とでも言えばいいか。
 京都と大阪には境目がないような印象を受けた。

 おもしろい話がある。
 京都に「四条」と呼ばれるところがある。この四条に私鉄がたくさん
乗り入れている。なのでちょうど真ん中の、集まる駅を「四条京都駅」と
呼んでいた。

 あれはいつだったか、ボクは駅(私鉄)で「京都駅に行きたいんですが」
とある男性に質問した。すると「ここが京都駅やで」「いえ、京都駅に」
「だからここが京都駅やて」。押し問答みたいになった。

 ボクは今でいうJRの京都駅のことを言ってるのだが、男性に
してみれば「こここそが」京都駅に違いなかった。
 地方の人間というのはとにかくJRこそが列車に違いない、という
確信めいたものがあるから。
 ボクはしばらくしてこの男性との食い違いにハッと気づいた。

 このように、ボクの京都での生活は色の違う二つの川が合流を
拒むような形でスタートした。
 実に不思議な話がある。
 京都での生活を始めるとやはりどうにかして関西弁で話そうと
努力するものだ。だが、自分の中では「オレは山口県だ」があるから
ややこしい。

 「山口県のオレが関西弁を話すと周囲のやつらにおかしく
思われるのではないか」、今から考えると実にどうでもいいような
ことを悩んでいたものだ。関西弁を使うと「おまえは山口県だろ、
なんで関西弁なんて話すんだよ」と詰問されるような感覚を持っていた。

2009年9月 4日

京都1

 京都の話をしてみようか。高校にあがるとき京都に行くことにした。
 一人で京都に向かった。アパートで一人暮らし。高校のやつらに
「おまえ、一人で、住んでんのけ」と言われ、たいそううらやまし
がられたものだ。「おまえ、ええやんけ、それ」。
 みんな一人暮らしをやってみたいらしかった。タバコは吸えるわ、
友人を呼んでバカ騒ぎ、など理由は分かったことだが。

 上に書いたように京都の高校とはいえ、京都弁というより関西弁、
大阪の言葉が氾濫していた。「どすえ」とか「そうどす」なんてただの
一度も聞いたことがない。
 京都にこれだけ「やんけ」が出回ってるとは思いもしなかった。

 さて。
 高校生になって高校に通うようになる。
 よく言われたのが「おまえ、九州け」。どうやら言葉が九州を思わせる
らしく実にいろんなやつから問いただされた。そのたびに「オレは山口県だ」
と。すると「山口は九州やろうが」って。あのねー。

 京都の人間にとって(大阪も多いが)九州あたりの感覚がこれだけ希薄
とは思いもしなかった。ボクは出発から出身地を間違えられ大いに憤りを
覚えたものだった。
 実際、山口県と九州ではかなり言葉は違う。だが、京都から見たら同じ
ようなものなのかな。

 言葉は実に不思議なものだと思う。昔で言う関所みたいな役割をしてるんだ。
 同じ言葉を話すことによって仲間意識が生まれる、話せないやつは
よそ者になってしまう。みんな中学をでたばかりだから遠慮がない。

 「はーあなたは山口県出身ですか、おい、みんな、この人は山口出身
だから、あまり関西弁、入れるなよ」みたいなことは一切なし。
 「なんで、おまえ、しゃべれんのけ」、だった。

 とにかく「のけ」「のけ」「のけ」の氾濫。山口県で「のけ」と言えば
「そこをどいてください」になるが、京都では語尾にすべて「のけ」がつく。
 「やってんのけ」「行かへんけ」「帰んのけ」。疑問形。

2009年9月 3日

小銭

 うちの家の向かいのお宅が改築されるみたいだ。
 このお盆に短期の引っ越しのごあいさつに来られた。
 11月くらいまで引っ越しされるようだ。ということは改築は11月
に終了するということか。
 改築というか全面的に取り壊して新しく新築されるみたいだ。
 いまや原型をとどめてはいない。

 取り壊しが始まるとすさまじい音響とともに破壊音が響いてくる。
 「あー、どれだけすばらしい家であっても取り壊すとただの残骸
だなー」そんな気分で眺めていた。
 ていねいに取り扱って生活していたとしても取り壊してみれば分断
されたブロックに過ぎない。

 三日ばかり前のこと。
 「破壊処理車」とか書かれた車が自宅の前に停まって作業していた。
 駐車場に車を入れることができないので「すいませーん、すいませーん」
とたけった。だれもでてくる様子がないので階段を上がり車の移動を
お願いした。

 そのときたまたま目に入ったもの。
 それはごくありきたりの洗面器だった。
 その洗面器にはあるものがたくさん入っていたのだ。

 ボクははじめそれを見たときなんだか分からなくてしばらく観察したが
ようやくなにかが判明した。一円玉、五円玉、十円玉、などの小銭
だった。ただそれは洗面器一杯あった。

 取り壊しが始まり家人に戻すために洗面器にためたものがこうなった
のだろう。金額にしていくらもないだろうが、それにしても洗面器
一杯とは。どこに入り込んでいたんだろう。

 ボクは子供のころからコイン収集を趣味にしていたからピンとくる
ものがあった。昔のお金は台所の座の下にツボなどにおさめられていた。
 この小銭はそうではないだろう。
 家人のだれかが隠しておいたのかもしれない。それにしても洗面器
一杯。断言するがうちの家じゃ見つからないな。こんなものは。

2009年9月 2日

自己紹介

 最近、自己紹介する機会が多い。何人かで集まって酒を呑む。
 知らない人もいるから自己紹介をしていただく。いつも「せっかく
なので趣味、好きな食べ物、こだわっていることなどあれば話して
ください」と付け加える。

 ボクは自己紹介が下手だ。下手くそ。もうどうしようもないくらい
下手。なぜなんだろう。
 自己紹介って知らない人ばかりだとやりやすい。だけどどこでも
半分くらいは知り合いなので「知り合いに自己紹介、おかしいなー」
とか思ってしまう。自分が周囲にやるよう促しておいてこれはないだろう、
なんだけどね。

 なのでいつも「わたくしは自己紹介が大変に下手なので、なので
みなさんは少なくともわたくしよりは上手にできます」とあらかじめ
うまくできないことを表明したりする。(それならうまくやれって、
ってことだけどね)。

 ただ、しかし、こうしていつもみなさんの自己紹介を聞いていると
やはり中にうまい人がいる。そこで改めて思う。「自己紹介って
きっかけ作りなんだな」と。
 「バイクに乗ってます」とか紹介する人がいる。すかさず「えっ、
オレも、何に乗ってるんですか」みたいな質問が飛ぶ。
 空からジャンプするんだが途中で引っ掛かる綱をつかんだって感じ。

 結局、ボクたちはいつもなにかしら自己紹介みたいなことをしてる。
 だったらみんなにうまく引っ掛かってもらえるように、そんな
取っ掛かりを用意する方が良いと思う。

 趣味とか好きな食べ物、ってのは要するに触手ということになる。
 みなさんの自己紹介を聞いていると中には「わたくしはこんな
レストランに行くのが好きなので、今度機会があったらぜひご一緒
しましょう」など口にされる方もいる。(ま、そのわりに実現
しないんだけど、この手の話)。

 自己紹介というのは、やはりそのものずばり、自分を紹介するわけ
だけど、そこから関係性が広がっていくかどうか、とても重要な意味合い
があると思う。ボクはめちゃくちゃ、損してるなー。ここで提案なんだが
三人くらいで「自己紹介の練習」とかもやってみるといいんじゃないかな。
 「オレはオレだから、オレのままでいいんだ」って方もいるだろうけど、
もっと技術を磨いてもいいと思うんだよね。

2009年9月 1日

研修会

 土日で泊まりがけで研修に参加してきた。土曜日はまず集まって
懇親会、翌朝研修をするというものだった。研修で話したことに
対してもっと突っ込む意味合いでの懇親会が多いわけだが、逆も
それなりに良かった。

 ボクは初めての参加ということもあり戸惑いを隠せなかった。
 懇親会ではすみっこで小さくなっていようと考えていた。だが、
酒が入ってくるとそこらあたりがマヒしてしまい、楽しく話を
させていただいた。
 ゆうべの懇親会で打ち解けたところで翌朝を迎え、研修もリラックス
して聞くことができた。隣にだれが座るかいつもだったら多少ソワソワ
するところだが、打ち解けた感覚で臨むことができた。

 さて。
 研修会や座談会、講習会などに参加していつも感じることだが。
 あなたはどっちだろう。
 参加してきた人の話を聞き、「あー、はいはい、そういうことね、
それはね、こういうことなんだよ」と解説するタイプ。
 そうではなく参加して判断するタイプだろうか。

 ボクは改めて参加してみて分かったのだが、話に聞くだけでは
分からない点がある。難しく感じられることにしても参加して話を
聞くと、(当事者から、ということになるのだろうが)、やれるような
気がしてくる。第三者から話を聞いて判断しようとすると、どうしても
ここの辺りが抜けてくるように思われる。

 なのでやはり研修会というものは参加して判断することがとても
重要だと改めて感じた。この空気までは伝わらないってことかな。

 質問コーナーがあったがだれ一人質問せず、ボクは二つ続けて
尋ねた。質問するときいつも思うことがある。それは「この質問は
この場にふさわしいのか」「内容を的確につかんでいるか」に注意が
向いてしまうんだ。

 こうした場で「ドッ」と受けることを期待する人はいないだろう。
だが、結果、あれこれ考えて質問のきっかけを失っていることが多く
ないだろうか。ボクもよくあった。
 質問することによって「それが場違いかどうか分かる」くらいの
つもりで質問した方がいいんじゃないかな。恥ずかしい思いをして
忘れられない一日になるっていうのも少し変だがおもしろいかもよ。